49話、捕虜交換の儀

 夜明け前の薄闇の中、砦の石畳にはまだ昨夜の雨露が残り、鈍く光を放っている。

 見れば、東の空はゆっくりと白み始めて、茜色の光が徐々に城壁を美しく染めあげていく。

 私の好きな、暁に蒼く染まる空が消えていった。

「人の生もまた、かくの如し……か。」

 その儚さに思わず、一人呟いてしまう。

 

 夜明けを告げる喇叭らっぱの音色が砦内に響き渡ると、兵士たちは寝床から起き上がり、あくびを噛み殺しながら、慣れた手つきで鎧を身につけていく。革と金属が擦れ合う音に、賑やかに飛び交う話し声が、朝の訪れを豊かに彩っていく。


 私がいる司令官室の窓からは、朝日が差し込み、冷え切った部屋を徐々に暖かな光で満たしていく。昨日の会談の熱気がまだ冷めやらぬ私は一人、新たな時代の到来を予感しながら、見慣れぬ朝の砦の様子を窓から堪能していた。

 中庭では、焚き火の煙が白い息のように立ち上り、暖を求めて兵士たちが集まり始めている様子が見える。火の粉がパチパチと音を立てては、彼らの顔を赤く照らしていた。

 モクモクと湯気の立つ大鍋からは、食欲をそそるスープの香りが、窓越しにもふわりと漂ってくるよう。

 

 すると、控えめなノックの音が聞こえて、アンネマリーが入って来た。

 彼女が持つ盆には、温かいスープと表面をこんがりと炙ったパンが載せられているのだろうか。香ばしい匂いが部屋中に広がり、先ほど見た大鍋の湯気も合わさって、たまらなく食欲がそそられる。


「もう、メイドではないのにな……ありがとうアンネマリー」

 私は、彼女に感謝の言葉を述べた。

 戦地での私の身の回りの世話は、大体が彼女かユリシスがしてくれていたから。

 そういえば、ユリシスの副官であるコルネリアが一度してくれた事もあったか……。

 

「たまの側仕えは楽しいですから、お気になさらないで下さい。それよりも、しっかり召し上がってくださいね」

 確かに。

 給仕中のアンネマリーの表情は、何だかとても楽しそうに見える。

 子供の頃からずっと世話してくれていたものな。勉強ばかりのアンネマリーにとっては、これは逆に良い気分転換になるのかもしれない。

 

「そう言えば、アンネマリーは食べたのかな?」

「いえ、給仕が終わってから頂く予定です」

「では、半分どうだ? お腹が空くだろう」

 私は、手に持ったスプーンを彼女へ差し向けてみる。

 すると、アンネマリーは頬をみるみると赤く染めて行くではないか。

 何だ? 何が恥ずかしい? スプーンが恥ずかしいのか?

 女心は本当に難しい。

 そういえば、先日のラウラの言葉もそうだった。

『姫様は、もっと軽いですから』一体なんのことやら……。


「……っ、激しい戦闘もありましたから、しっかり全部食べてください。私は後で頂きます。でも、ありがとうございました」

 アンネマリーの慌てるも優しい声に私は頷き、朝食を口にしていった。


 食事を終えると、アンネマリーは慣れた手つきで、私の鎧の着付けを手伝い始める。今日あるのは捕虜交換の儀と、領都への帰還のみ。戦闘では、全身を覆う重厚な鎧を装着するが、今日は必要ないだろう。

 軽装ではあるものの、威厳を保つための装飾が施されたものを身に着けていく。

「アレクシス様、お似合いですよ。凛々しくて素敵です!」

 アンネマリーがほんのりと頬を染め優しく微笑んでいた。

「ああ、ありがとう」

 アンネマリーは微笑んでいたが、その瞳の奥には、ほんの微かな悲しみが隠されていたのを、私は気づけずにいる。


 正午を少し回った頃、陽光が燦燦と降り注ぐ中庭に、一台の馬車が軋む音を立てながら到着した。黒地に艶めく車体には、ワンベルク家の紋章が誇らしげに輝いていて、車体には色鮮やかな装飾が施されている。

 まるで舞踏会へ向かうような華美な風体は、戦場には明らかに不釣り合いだった。


「ついにお出ましかな」

 私は、窓辺から馬車を見つめながら小さく呟く。

 この馬車には、身柄を拘束中のワンベルク伯爵と入れ替わりに、新たに人質となる人物が乗っているはずだったから。

 馬車が止まり御者が仰々しく扉を開けると、中から現れたのは、光を受けて淡く輝く栗色の髪が美しい、気品あふれる令嬢だった。


「ほう、ご子息ではなく、ご令嬢の方か」

 私の令嬢という言葉に、近くにいたツェツィが反応を示す。

 彼女は数歩進んで私の側へと近づくと、共に並んで窓の外を見下ろす。二人の視線が、中庭を横切る栗色の髪の女性へと注がれていく。


「栗色の髪……、あれは長女のアーデルハイト様かもしれません」

 ツェツィは身を乗り出すようにして窓の外を見つめている。

 午後の陽光が、その白い肌を煌めくように照らし出し、美しい横顔を浮かび上がらせていた。私は思わず見とれてしまいそうになるのを、懸命に堪えた。


「彼女と面識が?」

「ええ、祝賀会で話したことがあります。女性の皆さんって、集まって噂話や身の上話に花を咲かせるのがお好きみたいですから。私は少々苦手ですが……」

「そうか」

 私は、女性の輪に入るのを躊躇する彼女を思い浮かべて、僅かに笑みを浮かべた。過去に、そんな場面を見たような気がしたから。


「そういえば、新帝即位の後の祝いの席だったかな? あの時の君は、結構長く私の側にいてくれたけど、そういう秘密があった訳だ。どうりで、女性達の輪に混ざらなかったはずだ」

「あ、あの時は、男性貴族たちの私を見る、気持ち悪い視線が嫌だったのです。混ざりたくなかったのは否定しませんが……。うふふ、なんだか懐かしいですね」

「ああ、本当に。思えば、君はあの頃から美しかったからな、仕方がないさ」

 

 目を細め、遠い記憶を辿るように呟いた。

 気づけば、私も彼女もすっかり大人になってしまった。

 私はまだまだ子供で、ツェツィもまだ少女の面影を少し残していたあの頃。

 ローゼリアも、ローゼンヌも平和だったあの頃が懐かしい。

 私に、家族がいたあの頃が……。


「そ、そんな……アレクシス様ったら……」

 ツェツィは少し驚いたように目を見開くと、小さな声で呟いて俯いてしまった。

 そんな彼女を見て、ほんの少しの悪戯心が私に芽生えだす。


「おっと、そろそろ応接室に向かうとしよう」

 六年前の、新帝即位の祝いの席と同じように、ツェツィに手を差し伸べる。

「君も一緒に来てくれるかな? あの頃のように」

 私の言葉とポーズに、ツェツィは一瞬驚いたように目を丸くするも、すぐに懐かしさと喜びが入り混じったような素敵な笑顔を見せた。

「もちろんです、殿


 ◇◇

 

 重厚な扉を開けると、そこには予想外の静寂が広がっていて、少し驚いてしまう。暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが、静まり返った部屋に響いていたからだ。

 人質交換という状況下で、和やかな歓談など期待できるはずもないが、この張り詰めた空気は、どこか息苦しさを感じさせる程であった。


 ソファには、やつれた様子のワンベルク伯爵が項垂れるように座り、その傍らには逃亡阻止と護衛のためであろう、ヴァイスが鋭い視線を光らせている。

 そんな状態の伯爵の向かいには、橙色のカラードレスを纏った女性が座っており、その背中越しに見える美しい栗色の髪から、彼女が例のアーデルハイト嬢だと思われた。


 我々の入室に気づいたのか、アーデルハイト嬢らしき女性は、ゆっくりと立ち上がりこちらへと視線を向けた。その表情は意外なほど落ち着いていて、怒りも悲しみも一切見られない。かといって諦念に染まる訳でも無い。

 まるで、全てを受け入れたかのような、静かで穏やかな表情だけがそこにはあった。


「初めまして、ローゼリア伯アレクシス閣下」

 澄んだ声で挨拶を始める、栗色の髪が美しい女性。

「私はワンベルク伯爵の長女で、名をアーデルハイトと申します」

 やはり、彼女がアーデルハイト嬢だったようだ。

 

「アレクシス・フォン・ローゼリアです」

 私は穏やかな口調で返答する。

「このような形での対面となり、大変遺憾に思います」

 アーデルハイト嬢が、先の戦闘に拘わっていたとは思えない。

 ならば、彼女に対して思う所は何もない。むしろ、父ワンベルク伯の代わりとして人質に出されるのだ。気の毒とさえ思う。

 

 私の挨拶が終わると、隣に立つツェツィーリアが優雅に膝を折り、挨拶をした。

「お久しぶりですアーデルハイト様、ローゼンヌ子爵の娘、ツェツィーリアです」

 ツェツィーリアと名乗った瞬間、アーデルハイト嬢の表情がわずかに綻ぶ。

 それは、懐かしさに微かな温かさを感じさせるものだった。

「まぁ、本当にお久しぶりですわね」



 挨拶がひとしきり終わると、部屋の空気は再び張り詰め始める。誰もが、これから始まるであろう重い話に身構えているようだった。窓の外では、小鳥たちが楽しげにさえずっているというのに、この部屋の中はまるで時間が止まったかのように静まり返っている。


「さて、皆さま」

 この沈黙を破ったのは、私より進行役を命じられたリンハルトだった。

 彼が、静かな口調で話し始める。


「アーデルハイト様には、今回の件でご心労をおかけしていることと存じます。まずは、アーデルハイト様がどこまでお話を伺っているか分かりませんので、今回の交換条件について、改めて確認させていただきます」


 リンハルトは、手元の書類に目を落としながら、淡々と説明を始めていく。

「一つ目は、三年間の不可侵条約の締結です。これを機に両家は三年間、互いに攻撃しないことを誓います」

 これには、東部国境の安定を図りたいというローゼリア側の強い意志が込められている。


「二つ目は、不可侵条約の一方的な破棄が行われないよう、ご子息またはご令嬢をローゼリアに引き渡すお約束でした。これには、本日よりアーデルハイト様が当たっていただくことになります」

 リンハルトの言葉にも、アーデルハイト嬢は微動だにしなかった。

 まるで、全てを覚悟していたかのように、静かにその言葉を聞き入れている。その表情からは、彼女がこの決断に至るまでにどれほどの葛藤があったのかを推し量ることはできなかった。


「最後ですが、ドレイク男爵領から東に位置するこの砦、そしてここに至るまでの領土の割譲です」

 リンハルトは、地図を広げながら説明していく。

 広げられた地図上には、新たな境界線が太い線でくっきりと描かれていた。


 ワンベルク家にとっては、領土の一部を失うという大きな痛手となるだろう。

 だが、自ら始めた戦争に敗北し、当主自ら捕縛される事態となったいま、彼らに断る術はない。


「以上が、今回の交換における全ての条件となります。ワンベルク伯爵様、アーデルハイト様、よろしいでしょうか?」

 リンハルトは、二人の顔を見つめながら確認を求めた。

「ああ、構わん」

 ワンベルク伯爵は、力なく頷いた。

 その声には、かつての威厳はもはや感じられなかった。


↓ 新たに引き直された境界線です ↓

https://kakuyomu.jp/users/MinawaKanzaki/news/16818093080560785249

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