メイズハウスふたたび(1)
次の日。雨は降りやむどころかますます強くなり、ニュースの画面には大雨警報と注意報の、赤や黄色のテロップが飛びかっていた。
学校はお休みになった。
お母さんがパートに出かけるのを待って、わたしは昨日のうちに集めておいた道具をウエストポーチに詰めこむと、その上からレインコートを羽織って外に出た。
側溝からあふれた水で、道路は泥の川みたいになっていた。
ちょっと歩いただけでスニーカーは水を吸ってずぶずぶになり、わたしは長靴を買っておかなかったことを後悔した。
前に来たときは時計の針ばかり見ていたので、目的地を見つけるのには少しだけ手間どった。車道の脇から伸びる、細い横道。北斗ヶ丘に……いや、メイズハウスに続く道だ。
わたしはそこにある大きな木の下で雨をよけながら、待った。
三十分がすぎ、一時間がすぎて、もしかして遅すぎたんじゃないかと不安に思いはじめたそのとき、雨粒が作る銀色のカーテンの向こうから、黒いレインコートを着た人影が現れた。
「ユーシャン」
わたしに気づくと、ユーシャンはびっくりしたように足を止めた。
「深月? ……どうして」
「わたしも行く」
「行くって……なに言ってんの。危ないよ」
「わかってる。でも、これはわたしのせいだから。わたしがもっとしっかりしてれば、こんなことは起こらなかった。……だから」
「深月のせいじゃない。全部、あのくそったれな
「それを言うなら、ユーシャンのせいでもないよ」
わたしたちは、雨の幕越しにお互いを見つめあった。
「……本当に、いいの」
ユーシャンが言った。
「うん」
「……わかった」
ユーシャンは大きく溜息をつくと、わたしに手をさしだしてきた。
「一緒に行こう。私たちで、終わらせよう」
「うん」
わたしは頷き、ユーシャンの手を握った。
ふたり並んで坂道を歩きはじめると同時に、ユーシャンがわたしの耳元に顔を近づけて、小さな声でささやく。
「実は、ゲロ吐くくらいびびってた」
わたしたちはまた、お互いの顔を見合わせると、我慢できずに笑いだした。
笑いながら、つないだままの手を強く握る。今はそれが、たったひとつの命綱みたいに感じられた。
メイズハウスの庭はズブズブにぬかるんで、まるで泥の海だった。目指す屋敷は、その海の向こうに浮かぶ、黒い岩だらけの
わたしのひいおじいちゃんが暮らし、おばあちゃんが生まれ育った場所だと知ったところで、愛着がわくわけではない。激しい雨にかすんでそびえる屋敷は、ただひたすら、おどろおどろしく見えた。
わたしたちは泥だまりを突っ切り、メイズハウスの正面玄関にたどり着く。
あの日、ユーシャンが内側から開けたカギは、今も開いたままだった。
ドアに手をかけた瞬間、待っていたぞとでも言うように、雷鳴が鳴りひびいた。
わたしたちは無言のまま、メイズハウスの中へと踏みこんだ。
重いドアを閉めると、外の雨音がウソみたいに遠のく。屋敷の中は暗く、静かで、冷蔵庫の中みたいに冷えきっていた。
レインコートを玄関に脱ぎすてる。その下から出てきたわたしのウエストポーチを見て、ユーシャンが目を丸くした。
「なにそれ」
「家にあった使えそうなもの、あるだけ持ってきたんだ。防災グッズの懐中電灯でしょ。お父さんが日曜大工に使うカナヅチでしょ。」
「……で、その、腰にぶら下げてるのは?」
「こ、これは……『消臭シュッシュ・レモンの香り』……」
ユーシャンに呆れたような目で見られ、わたしはへどもどしながら言った。
「その、昨日ネットで調べたら、こういうのにも除霊効果があるって……。ユーシャンのぶんもあるけど」
「……一応、もらっとく」
わたしはウエストポーチのベルトにつるしたS字フックを外すと、スプレータイプの消臭剤と一緒にユーシャンに渡した。ユーシャンはそれと入れ替わりに、小さな鈴をわたしにくれた。
「台湾の、魔除けの鈴。あと……これも」
そう言ってユーシャンがさしだした紙には、見覚えがあった。黄色い紙に、漢字と模様が書かれ、赤いスタンプが押してある。
「これは……」
「今朝、台湾から届いた。ひいじいちゃんがもしものときのために作っておいてくれた、封印の護符」
お札の見分けなんてわたしにはつかないけれど、あの箱に貼ってあったものとまったく同じに見えた。違うのは、こっちの護符はまだそんなに色褪せていなくて、きれいな状態だということだ。
「……いいの? 二枚しかないんでしょ?」
「そのほうがいい。ふたりいれば、チャンスも二倍になる」
「できるかな。だって、メイズさんは……」
メイズさんは、未来を見通す力がある。
そう言いかけたわたしを制して、ユーシャンは静かにかぶりを振った。
「わかってる。でも、あいつだって万能じゃないはず。……そうでなきゃ、ひいじいちゃん達があいつを封じられたことの説明がつかない。私か深月、どっちかがスキをついて、これを
「その呼ばれかたは、好きじゃないわね」
笑いをふくんだ声。
弾かれたように振り向くと、階段の踊り場から、女の子が見下ろしていた。
黒のレースをあしらった、赤いつば広帽。チョコレート色の長い髪と、その下のくちびる。ノースリーブの赤いワンピースからすらりと伸びた足は、白いサンダルをはいている。
「メイズさん……」
「そうそう。呼ぶなら、そっちにしてちょうだい」
メイズさんは首にかけた懐中時計の
「おとなしくしていれば見逃してあげたのに。おろかな子たち」
現実の世界で、姿をはっきり見るのははじめてだった。
夢で「友達になりましょう」と言ってきたのと、まったく変わらない。わたしには今でも、かわいい年下の女の子の姿にしか見えなかった。
だけど、違うんだ。この子は人間じゃない。人形にとり憑いた
命を奪い、
「うす汚い、人形の化け物。……よくも私を利用したな」
ユーシャンがうなるように言った。
「クスクス……。怒っているわね、ユーシャン。だけどそれは、自業自得よ。おまえが長く苦しんだのは、おまえが強情なせい。もっと早く音をあげていれば、ミヅキを巻きこむ必要もなかったのにねえ」
「なんだって?」
「どういうこと!?」
思わず、わたしも叫び声をあげていた。
「わからない、ミヅキ? おまえは確かに、特別な娘だったけれど……私だって、他の娘にまったく声が届かないわけじゃないわ。夢で語りかければ、少しずつ……ほんの少しずつだけれど、考え方を変えさせることくらいはできる」
まさか。
「そう。生意気な台湾人を、みんなが嫌うようにしむけることだって、ね。でも、それでおまえは必死に日本語を勉強する気になったのだし、ある意味、私のおかげよね。お
ユーシャンの顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
「メイズッ!」
「アッハハハハハハハハハ!」
笑いが弾けた。
メイズさんはくるりと振り向くと、階段を駆けのぼっていく。歯を食いしばってユーシャンが追う。
一瞬出遅れたわたしは、あわててユーシャンに続こうとした。だけど踊り場に立った瞬間、動けなくなってしまう。
二階に続いているはずの階段が、途中でふたまたにわかれていた。
前に来たときは、こんなふうにはなっていなかったはずだ。わたしは、いやでも昨日のことを思い出してしまった。メビウスの輪みたいにおかしな場所につながった階段、無限に続く理科室までの廊下……。
メイズさんの姿はもちろん、ユーシャンの姿もない。
だからって、こんなところでジッとしていちゃダメだ。わたしは勇気をふりしぼって、右側の階段をのぼっていった。
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