第4話 藪の中

 あのお方はね、本当に珍妙なお方でございましたよ。ぽっきり折れてしまいそうな細い体を、くたびれた着物で柏餅みたいに形ばかり包んでおいででね、いつも目だけがぎらぎらと怖いくらいに光っておりました。


 なんと言っても、臭いんですよ。不潔というわけではないんですけども、なんとも言えない臭気がね、あの方の毛穴という毛穴から放たれておりましてね。

 口臭もひどくて。たばこのやに臭さに腐った魚のような臭いが混ざったような異臭が、わたしの鼻腔を強烈に刺激するもんですから、あの方のお相手をするときはいつも、頭痛がしていたものです。


 聞いた話によるとあの方は、かつては吉原の常連だったそうですし、数々の美しいご婦人方とも恋愛関係にあったらしいですけどね、それは若い時分の話じゃあないですか。少なくとも、妾が知っているあの方は、やせっぽっちで眼光だけ鋭い、臭くて貧乏たらしい男でした。


 こういう場所にあがるのに、大事なものも勃ちゃあしない。それなら、なにをしに来るのかと言えば、甘えに来るわけです。幼子のようにね、妾の胸に顔を埋めながら、目に涙を浮かべて「辛い、死にたい」といつまでも飽かず、繰り言を言うのです。


 あのお方は、お母さんが狂っていたから自分も狂うのではないかと、いつも怯えておりましたがねぇ。私の見るところでは、あのお方の癌は、伯母さんですよ、絶対に。伯母さんがあの方を駄目にしたんです。


 だって、「俺は実は、研究者になりたかった」っておっしゃるんですよ。それなら今からでもなればよろしいのに。才能は十分におありになるんです。でも、「それは駄目だ」って言うんです。「俺は小説を書かなければならない」んだって。

 育ての親である伯母さんが、文学好きだからなんです。幼少期から、そう仕向けられたんです。洗脳されていたんです。

 だからあのお方は可哀想に、自分を殺して、伯母さんを喜ばせるためだけに、小説を書いてお金を稼いで生きていたんですよ。ずっと……。

 そりゃあ、頭がおかしくもなりますわね。


 いつかあの方が、妾の賃金について聞いてきたことがありました。妾の身の上とご自分の身の上を比較して、「お互い、生きるために、生きているんだなぁ」なんて、しみじみおっしゃってらっしゃいましたけれど。あの方と妾はまるで違うんです。

 妾は、借金の肩に娘を廓に売った親のために、働いていたわけではありません。借金を返して自由になるために、「今」を精いっぱい生きていたんですからね。


 とはいえ、苦界に生きる女は、いつ何時どんな辱めに遭うかわかりませんからね。なにかあったときには、自ら命を絶とうと覚悟は決めておりました。その筋の馴染みに頼んで、青酸カリを手に入れて、お守り代わりに持っていたんですよ。

 それをね、あの方に差しあげたんです。だって、死にたくてもなかなか死ねずに、辛くてたまらないようでしたので。あのような惨めなお姿をさらして生きてらっしゃるのが、なんとも哀れに思ったんです。


 だけれども、アレをお渡しする際には、きちんと言っておきましたよ。「これを飲んで死ぬ勇気がおありになるくらいなら、お家から逃げておしまいなさい。ご自分の名を捨てて、自由にお生きなさい」と。あの方を幾度もこの胸に抱いて寝たので、母のような気持ちになっていたのでしょうね。


 それから数ヶ月もしないうちに、新聞であの方が自殺したという記事を見て、びっくりしました。それこそ、心臓が破裂するかと思うくらいに。本当に死んでしまうなんて、思っていなかったんです。


 背中にひんやりと鋭く冷たい感覚が貼りついて、私の呼吸を苦しくしました。私の渡したアレのせいで死んでしまったのだと思うと、罪悪感がいや増します。また、アレの入手経路をたどって警察が妾のところまで来やしないかと、不安で不安で仕方なく、随分長いこと夜も眠れませんでした。


 だけど、変ですよね。


 新聞には、「自宅で常用していた睡眠剤ヴェロナールを多量に服用して自殺」と書いてあるんですよ。あれだけ普段から常用していた睡眠剤ですから、耐性がついていることくらいお医者様も承知でしょうに。過剰に摂取して死ねるくらいなら、とっくに死んでいたんじゃあないですか。


 検死したなんとかいう主治医のお医者様は、私が渡した紙の包みを発見しなかったのでしょうか。発見した上で、うそを報告したんでしょうか。一世を風靡した有名な作家が、悲しき売笑婦から恵んでもらった青酸カリが原因で死んだという醜聞を避けるために。


 ……かどうかはわかりませんけれども。


 世の中は、うそだらけですね。

 この件で妾は、こんな風に新聞に書いてあるうその積み重ねが、現実を作っているんじゃないかって想像してしまって、身震いしてしまいましたよ。

 まぁ、私のお話ししていること自体が、うそかもしれませんけどね。あの方の小説にちなんで、全ては藪の中、ということで、妾はあの世に帰らせていただきます。


 了

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