5

 工場から怒号や銃声と思われる、くぐもった騒音が、立て続けに中から漏れてくる。

 カイたちが突入して約十分。今頃鎮圧作戦の真っ只中であろう証拠が、次々と建物を揺るがさんばかりに響く。

 外に待機する警官の緊張感。ピリピリとした雰囲気は、やや離れた入口付近の守衛所にいる織笠にも多分に伝わる――のだが、織笠自身は全く違う意味で落ち着かなかった。


 アイサの存在である。


 女子高生と二人きり。これがどれだけ彼の心に負担をかけているか。

 しかも年下。

 これは中々にコミュニケーションが取りづらい。

 そのアイサの体には、まとわりつくように浮遊している緑の光がある。交信用の精霊だ。彼女はかなりリラックスした状態だが、有事があれば随時連絡が入ってくる。

 彼女もまた戦士。表面上そう見えるだけで、気は抜いていないはずだ。

 さらには自分を護衛する任を負っているため、むやみにどこかへ行くわけにもいかない。

 ――まぁ、ここは大人しくしていよう。それに越したことはない。

 そう心に決めて、織笠は工場へ視線を移す。


(……カイさんたち大丈夫かな……。でもあれだけ強いんだから、俺が心配してもあまり意味がないとは思うけど……)


 彼らは命の恩人だ。いくら人見知りでも、どれだけ個性の強い人たちであろうとも、やはり安否は気になる。

 胸に抱いた小さな命の温かみを感じながら、彼らの無事を祈った。


「――ねぇ、レイジ」


 アイサがこちらを見ながら言った。


 ……え?

 今、何て言いました?


 織笠は硬直した。本当に彼女が何を言ったのか、全然理解出来なかったからだ。

 目を皿のように丸くし、アイサを凝視する。


「あれ、違った? 確かレイジっていうんだよね、名前」


 首を傾けるアイサ。


「あ……、あっ、うん。合ってるけど……」


 今名前で呼んだの?

 しかも呼び捨てされた? いや、呼び捨てはこの際、置いておこう。些末なことだ。

 出会ってまだ数分の相手にいきなり名前で呼ばれた。

 生まれてこの方、親以外に名前で呼ばれたことなんてありませんよ、俺。学生時代でも、大体「織笠」か、「織笠くん」だったのに。

 基本、そういうのは仲が良い者同士が親しみの証として使うはずでは。

 織笠の頭の中を困惑が駆け巡っていた。


「何をそんなフリーズしてんのさ?」

「いっ、いや、今名前で呼ばれたからびっくりしちゃって」

「だって面倒じゃん。ウチら皆名前で呼び合うからさ。そっちの方が慣れてんだよね」


 そ、そうか。文化の違いか。それなら仕方ないよね。

 胸がドキドキしながら、織笠は自分を強引に納得させた。


「だからさ。あたしのことも名前でいいよ。他の皆もそんな感じだったでしょ?」

「う、うん。……」


 ごくり、と生唾を飲む。


「ア、アア……」

「ん?」

「ア、ア、ア――、“アイサ”ちゃん!」


 勇気を出してチャレンジしてみた。が、心臓が爆発しそうで思いきり声量を間違えてしまった。

 ギョッと驚いたアイサは、豪快に笑い飛ばした。


「そんな緊張しなくてもいいのに。もっと気軽にいこうよ、気軽にさ」


 カッコ悪い……。つくづく自分はヘタレだなぁ……、と落胆する。やっぱり止めとけばよかったと、頭を抱えたくなった。

 それでもまだ救いなのは、こんな自分を気持ち悪がらなかったことだ。普通ならドン引きしてもおかしくない。屈託なくゲラゲラ笑ってくれる彼女に織笠も苦笑いしつつ、弱々しい声で訊く。


「……で、どうしたの?」

「あぁ、そうそう」


 アイサが織笠のすぐ近くまで寄り、彼の胸の方へ指をさした。


「そいつ……モエナだよね? ――何でここにいるのさ?」


 やはりアイサも、この黒猫が気になっていたらしい。

 織笠はキョウヤたちにした説明を再度話すと、やはりアイサも怪訝な表情を浮かべた。


「……ねぇ」

「ん?」

「どうして皆モエナを見ると、そんな顔をするの? この子ってワケあり……とか?」

「あ〜。う〜ん、それは……」


 露骨に目を泳がせるアイサ。

 全員が全員、そんな反応するなんて只事じゃない。これではまるでいわくつきの商品を押し付けられた気分だ。

 例えどんな経緯があるにせよ、大切な生き物だ。自分はこの猫を飼うと決めたのだ。事情がどうであれ、手放さない覚悟は出来ていた。


「うう……」


 教えてくれという懇願が込められた織笠の瞳と、狼狽する彼女をジーッと見つめるモエナの金色の瞳。

 四つの眼を浴びせられ、アイサは迷いに迷った挙げ句観念したのか、深々と息を吐いた。


「まっ、いいか……。でもあんま詳しくは言えないからね?」

「……うん」


 少しだけ溜飲が下がる織笠。

 アイサは腕組みしながら、唸る。言葉を選んでいるのか――、しばらく経ち、慎重に口を開いた。


「モエナはアタシの先輩の飼い猫だったんだ。学校のって意味じゃないよ。要するに、“元”インジェクター」

「……元?」


 アイサは深々と頷く。


「ちょっと前……、つってももう一年になるかな。ウチらの部隊は五人だったんだよ。その人はとにかく凄くてさ、実力は折り紙つき。ユリカさん以上だった。それに性格も優しくてさ、将来を嘱望しょくぼうされてた。……憧れだったなぁ……」


 アイサは歪んだ笑みで淡々と話す。沈んだ声色に懐古が滲み出ていた。


「…………」

「んで、まぁ色々ゴタゴタがあったらしくてね。ある日突然いなくなっちゃったんだ。……残念だよ」

「どうして……。何があったの?」


 アイサはかぶりを振る。


「よく分かんない。下っ端のアタシには情報は下りてこなかったし。カイさんならワケを知ってるかも知れないけど……どうかな」


 アークでモエナを見たときの困惑ぶりを見るに、その可能性は低そうだ。

 アイサは「それにね」と、話を戻した。


「あの人もあの人で、あまり他人に悩みとか打ち明けるタイプじゃなかったしさ。いつも笑顔で、でも仕事となると真剣で。消息を絶ったときには皆混乱してたよ」

「連絡……とかは? 何か手掛かりとか無いの?」


 黙ってまた首を横に振りながら、彼女は寂しげな眼差しで虚空を見つめる。

 宝石にすれば計り知れない価値がありそうな大きい瞳に宿る――痛切な思慕。

 眼を細めたのは、夕陽の眩しさからか、それとも悲しみを堪えているからなのか。


「それからは、マスターがモエナを預かる形を取ってたんだ。あの人がいつ戻ってきてもいいように……なのか、または別の意味があるのか……」

「……どういうこと?」

「君も薄々気づいているでしょ? コイツが只の猫じゃないってのは。一応守秘義務だから言えないけど、それだけ貴重な存在なんだよね」

「でも……。じゃあなおのことマスターは俺にモエナを……」

「そこなんだよねぇ。マスターの意図がさっぱり分からない。そもそもこんなケースですらあり得ないし」


 二人は揃って眉をひそめながらモエナを見る。話題の中心であることを知ってか知らずか、本人は飄々と毛繕いに精を出している。


(…………)


 モエナの秘密については分かったが、結果、より疑問が大きくなってしまった。

 マスターは何故。そこまで大切なものならば、プレゼントと称して民間人に贈るのは奇妙な話だ。

 だとしたらアイサの言う通り、何か特別な理由があって自分に渡したのかもしれない。

 ――その時。

 ピクッと、モエナが顔を上げた。


「どうした、モエナ? ――あッ!」


 織笠の腕からすり抜けたモエナは地面へ着地すると、瞬発的に敷地内を駆け出した。


「お、おいっ、モエナ! どこ行くんだ、待て!!」


 声をかけたところで無論、猫に通じるはずがない。


「レイジ! 追うよ!」

「え!? 待機命令はどうするの!?」

「いいから早く!」


 やけに切迫した声を発しながらアイサが後を追う。動揺しつつも、彼女自らが命令違反を完璧に犯してくれたなら、もうどうしようもない。とりあえずモエナを捕まえなくては――半ばヤケ気味に織笠も後に続く。

 さらには、追従する緑の精霊が二人の横にピタリと張り付き、その光へアイサが叫ぶ。


「カイさん緊急事態です!!」

『……どうした? 何かあったのか?』


 やや間を置いて、応答があった。

 残響のあるカイの声は落ち着きを払っていた。かなりクリアな音質だ。加えて他に音は聞こえてこないところを考えるに、どうやら暴動の鎮圧は終わったようだ。


「モエナが勝手に行動を! 封鎖区域に入っていきます!」

『……何? モエナが?』


 現場は工場であるため、敷地内にある他の施設は警察が封鎖し、社員であろうとも立ち入りを禁止している。モエナは警戒にあたる警官の足を鮮やかにすり抜け、速度を落とすことなく突き進む。


「恐らく何かを察知したんだと思います。今レイジと一緒に後を追ってますが、どうしますか!?」

『おい、ちょっと待て! 何で彼までいるんだ?』

「すいません、何故かそうなっちゃいました!」


 向こう側から明らかなため息が聞こえた。

 冷や汗をかきながら、アイサが必死に言い繕う。


「いや、あのですね、一応考えはあるんですよ。護衛対象だからアタシと一緒に行動した方がいいだろうし、現場とは全然違う方向なんで危険は少ないだろうなーって!」

『まったく……』

「で、どうしますか!? アイツどんどん奥に行っちゃってますけど!」


 沈黙が落ちる。カイの返答を待つ間、二人はモエナを見失わないように走り続ける。

 それにしても、猫の全速力がこれほどまでに速いとは。

 敷地内は見通しがいいが、あまりに広すぎる。モエナとの差は開く一方だ。


『……分かった』


 数秒後、返事がきた。


『君の憶測は正しいと思う。モエナが単独で行動するなら、きっと目的があるはずだ。必ずそれを突き止めろ』

「はい!」

『すまないが、俺たちもそちらに向かいたいが、まだ少し時間がかかりそうだ。――何かあればまた連絡してくれ、以上』

「了解です!!」


 威勢よく通信を終了し、ニカッと白い歯を見せるアイサ。

 黒猫は猛然と、野生の本能を呼び覚ませられたかのように地面を蹴っている。まるで急き立てられるかのように。荒々しく、どこまでも真っ直ぐに。



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