第8話


「かわいいね」


 サキが道端の猫を見て、言った。


「かわいいね」


 白と黒の色を持った猫を見ながら、俺はサキと同じ言葉をサキに返した。


「動物好き?」


 サキが歩きながら、俺に聞く。


「好きだよ」


 俺も歩きながら、言った。


「猫と犬どっちが好き?」


 サキがまた俺に質問をする。


「犬かなぁ。サキはどっちが好き?」


 サキはどっちが好きか気になって、俺も質問をした。


「どっちも!」


 サキが明るく笑いながら言った。


「じゃあ、どっちも好きだろうけど、どっちの方がより好き?」


 サキの明るい笑顔につられて俺も自然に笑みが溢れた。

 サキは俺の追加の質問に、手を顎にやって真剣に考えてくれた後に言った。


「猫かな!」

「そっかそっか。猫もいいね」

「猫の方が好きだけど、犬も好きだからね」

「うん、さっき言ってたね」


 他愛もない会話をしながら、家に帰っている。

 今日は仕事が休みで、サキも時間があるので、二人で買い出しに出掛けていた。

 買い物が終わったので、今帰路についている所だ。


 サキがまた家に滞在しにきて、三週間経った。

 あのアシュリーとの一件から大学に全然通っていないようだ。

 ストーカー紛いのジェンの事も解決せず、今もメールや電話がきているみたいだ。

 このままじゃ、留年するとサキは笑いながら言っていた。

 俺たちは、何か良い解決策はないかと頭を悩ましている。


 サキが歩いて、地面を見つめながら、徐に口を開いた。


「私さ、あの時、トウマに自分を持ってないって言ったよね」

「え? うん」


 俺はサキがあの時のことを言ってきて、ドキッとした。

 サキの言葉に耳を傾ける。


「でもね、また一緒にいて気付いたんだ。トウマは誰よりも人に寄り添える人だって、色々あってトウマに助けてもらって、いつも静かなトウマは、さざ波のような心地良さで人に寄り添える優しさを持った人なんだって」


 俺はサキの言葉に驚いた。

 思ってもないサキの言葉に胸がいっぱいになり、胸が締め付けられる。

 他でもないサキに言ってもらえて、とても嬉しかった。


「トウマは自分を持ってない訳じゃない、自分を持ってるけど、相手に譲ってくれる優しさを持っているだけなんだよね。あの時はごめんね、あの時の言葉は間違いだって思ったから、言いたかったんだ」


 サキは、俺に微笑みかけながら言った。


「っ、いや、そうかな? でも、俺は、まださ……」


 サキの予想外の言葉に、意思と裏腹に涙が流れてきた。

 手で涙を拭いながら、俺はまだ自分を持ってないと言いかけてやめた。

 サキが俺の良さを見つけてくれたのに、水を刺したくなくて、俺がまだ自分を持ってないのは俺自身の問題だから、サキにはカッコ悪いことを言いたくなくて、俺は口を噤んだ。


「ごめん、思い出させちゃって」

「大丈夫っ、こっちこそ、みっともなく泣いて申し訳ない」

「そんなことないよ、泣いてるトウマは可愛く見えるね」


 サキは泣いてる俺を見て、笑いながら、可愛いと言ってくれた。

 俺は急に恥ずかしくなって、涙が引っ込んだ。

 照れ臭かったが、可愛いと言われて案外、嬉しくもあった。


 *


 仕事場の倉庫に籠って、俺は棚に置いてある備品を整理している。

 足りてない備品はないか、タッチパネルを覗き込みながら確認をしていた。

 ポケットに入っている携帯が震えだし、着信音が鳴り響いた。


 この時間に俺に電話なんて珍しいな。

 勧誘か何かだろうと思いながら、俺は作業を中断して、電話を確認した。

 電話の着信元には、サキと映っていた。


 俺はサキから電話がきたことに、嬉しくなりながら、急いで電話を取った。


「もしもし」

「もしもし! トウマぁ、助けてっ!」


 電話口から切羽詰まったサキの嘆願の声が聞こえてくる。

 その初めて聞いたサキの恐怖を含んだ声に、俺は一気に背筋が凍り、心臓が跳ね、手が震え出した。


「サ、サキ、何があった? 俺はどうすればいい?」


 まさかと、頭にジェンのことが過ぎった。


「ジェンが! 私アシュリーだと思って、呼び出されて行ったら、そしたらジェンが居て、捕まりそうになったんだけど、逃げたの。でも、まだジェンが私を探してるかもしれない。私怖いよ、なんでジェンがアシュリーの声で私を呼び出したのかもわからないし、走って逃げたけど、怖くて、トウマにそばにいて欲しいよ……」


 俺の嫌な予感が当たり、サキは何かのトラブルに巻き込まれている。

 ジェンの動きに、サキに対する犯罪めいた匂いを感じた。

 俺の中の答えは、今すぐ仕事を放り投げて、サキの所に行くことしかない。

 俺はサキを守りたい、なによりもいつもサキの力になりたかった。

 何を一番したいのか、悟った。

 いつもサキの為になりたいんだ。

 それは、まさに今だ。


「トウマ……」

「うん、わかった。今からそっちに行く、場所を送って欲しい。いや、まず、どこかの、人が多い場所や、隠れられる所に居て。それから、俺に教えてほしい」

「わかった……ごめんね、トウマ」

「謝ることじゃないよ、すぐ行くから、メッセージでまた送って」

「うん……」


 電話が切れる。

 心臓が速く脈打ち、恐怖を抱きながら、興奮と体を駆り立てる使命感に支配されながら、俺は倉庫の中から飛び出した。


 管理者の所に行って、急用で早退しますと一方的に言いつけた。

 職場前の外で携帯を確認すると、メッセージにサキから現在位置が送られてきている。

 サキがこれ以上危ない目に遭う前に、ここに行かなければならない。

 急げ。

 俺は、全速力で走り出した。


 途中でバスに飛び乗り、時間を短縮した。

 バスを降りて、また駆け、携帯で確認すると、サキはもうこの近くにいる。

 俺はサキに電話をかけた。


 電話がすぐ取られて、電話越しにサキの声がした。


「もしもし」

「もしもし、近くに来たよ。今どこにいる? 移動した?」

「今、大きなデパートの中の椅子に座ってる。さっきカフェにいたけど、デパートの方がいいかなってデパートに……」

「そっか、わかった。じゃあそのデパートに行くから、もう来るよ」

「うん、待ってる。ありがとう」

「うん」


 電話が切れて、地図でデパートを探した。

 ここから徒歩五分ぐらいの所にデパートがあった。

 ここだろう。


 顔に水が当たった。

 手にも、水が当たる。

 俺は手のひらを空に向けて、広げた。

 手のひらに次から次に水が落ちてくる。


 よりによって、雨が降り出した。

 俺は走り出し、サキのいるデパートに向かった。

 

 デパートの中に入る。

 雨足は一気に強くなり、服が少し雨を吸って濡れてしまった。

 俺はすぐにサキに電話をかけようとしたが、入り口付近の休憩所に座っているサキを見つけ、サキの元に急いだ。


 サキも俺に気付いたようで、立ち上がって駆け寄ってくる。


「トウマぁぁぁ」


 サキは俺の姿を見て安堵したのか、子供のようにしがみついて泣いていた。

 俺は何も言えずに、ただサキの背中を摩った。

 周りの買い物客が何事かというリアクションでこちらを見ていた。

 俺はそれに気付きながらも、気付かない振りをした。


 サキが泣きながら俺から離れる。

 俺の濡れている服に気付いたのか、俺の肩を手で摩っている。


「トウマ、服が濡れてる……風邪ひいちゃうよ。ごめんね、いきなり呼んじゃって。こんなになってまで私の為に来てくれて本当にありがとう。私、怖くて。本当に本当にありがとう」

「ううん、大丈夫。サキが危険な目に遭うんじゃないかって思ったら、いてもたってもいられなくて……サキが無事でよかった」


 俺はそう言いながら、サキに笑いかけた。

 サキが手を胸に置いて、目を見開き、驚いたような顔していた。

 俺を見て、視線を泳がせた後、また俺を見て、落ち着きがない様子でいつもと様子が違うようだった。


「……うん」


 サキは急に、おとなしくなって控えめに返事をした。

 サキが俺の服を掴んで、そっぽを向いて、静かに俺に言った。


「帰ろ」

「うん、そうだね」


 いつも目を見て笑いかけてくるサキの様子がいつもと違う気がして、どうしたのかと俺は思った。


 *

 

 デパートから出て、二人で家に帰っている。

 雨が降っていたので、傘を買って、二人で差しながら帰っていた。

 勿体無いから、傘は一つでいいとサキがいったので、俺達は、相合傘で帰っていた。


 二人で密着しながら、歩く。

 俺はサキを近くに感じ、緊張していた。

 サキは隣を歩いているが、珍しく無口で、髪を触ったり、手で腕を摩ったり、忙しなく色んなところを見て、なんだか落ち着きがないようだった。

 目が全然合わなくて、サキと目がやっと合ったかなと思ったら、目が合った筈なのに、すぐサキに無かったことのように目を逸らされてしまった。

 いつもなら、笑ってくれるのにな。

 俺は悲しくなって、そしてこの時間を気まずく感じた。

 やっぱり傘は二つ買うべきだったか。

 狭いので、お互いに少しづつ、濡れてきてもいた。


 後ろから、力強く肩を叩かれた。

 痛いと思いながら、後ろを振り返る。


 すると、目の前に俺より背が高い白人の男が立っていた。

 男は筋肉質そうでガタイがよく、威圧感があった。

 赤毛の癖毛で髪は短髪、緑色のシャツに青いジーパンを着ていて、露出している腕にはタトゥーが彫られている。

 男は傘も差さず、立っていて、ずぶ濡れだった。


「彼はジェンだよ!」

 

 サキが必死な声で横から叫んだ。

 こいつがジェン……。

 ジェンの姿を見て、俺は怯んだ。


 目の前のジェンが目をカッと見開き、興奮したような様子で吠えた。


「お前誰だよ! なんで、サキと一緒にいるんだ!? チビのヒョロ野郎が! 俺とサキの前から失せろ!」


 男は吠えながら、いきなり俺に向かって右ストレートのパンチを打ってきた。

 そのパンチは俺の鼻に見事に当たり、耐え難い激痛が顔面に走る。

 俺は傘を落とした。

 俺は鼻を抑えた。

 ドロっとした液体が手に当たり、手を見ると手のひら一杯に雨水混じりの血がついていた。

 雨水が俺の血液を洗い流していく。

 雨が体に降り注ぎ、あっという間にずぶ濡れになりそうだった。

 隣のサキが尻餅をついて、地面に座り込んでいた。

 サキは怯えた表情で、目から涙を流しながら、やめてと言ってパニックを起こしているように見えた。

 サキにも雨が降り注いでいた。

 

 くそっ、ジェンはイカれてる。

 今まで、ここまで人に殴られたことはない。

 人に殴られたという、物理的な衝撃と精神的な衝撃で、体が震え出した。


 だが、俺にはサキに対する想いもあった。

 こんな危険な奴にサキを渡すわけにはいかない。

 それにサキはジェンを好きでもない。

 こいつのせいでサキが不幸になる。


 俺はどうでもいいんだ。

 サキには幸せでいて欲しい。

 俺はいつもサキの為になりたい。

 だから、たとえ死んでもこいつを止めて、サキを守る。

 俺がもし死んでも、こいつは警察に捕まればいい。


 俺は恐怖心を押しつぶし、狂ったようにジェンに向かって体当たりをした。

 ジェンの腰を掴む。

 死んでも絶対に離さない。

 

「逃げろ、サキー!」

「お前、アジア人かっ? 汚い手で俺に触れるな! 離せ!」


 俺はジェンの腰にしがみ付きながらサキに向かって叫んだ。

 サキが泣きながら、首を横に振って座り込んでいる。


 頭に強い衝撃が走る。

 ジェンが俺を殴っている。

 強い力で、俺は、これはそんなに保たないと思った。

 こんなの何回も喰らえない。


「サキ、早くっ、頼むっ」


 俺はサキにまた叫んだ。

 サキは俺の頼みを受け入れたのか、苦しそうに呼吸を乱しながら、走り出し、遠ざかっていった。

 良かった。

 また頭に衝撃が走る。

 ジェンは俺の頭ばかり狙っている。

 優しさの欠片もない奴だ。


 俺はジェンから距離を取った。

 そして、ジェンに向かって、バカの一つ覚えのように、また体当たりをしに行った。

 ジェンの腹に入り込むと、ジェンの腹を力一杯、何回も殴りつけた。


「てめー、ふざけるなよ!」


 ジェンの声が振ってきて、俺は次の瞬間に、地面に投げ飛ばされた。

 水溜まりの地面に体が打ち付けられる。

 冷たい水が、もう水を含んでる服に染み出す。

 痛みと冷たさを感じた。


 ジェンが俺に馬乗りになってくる。


「俺に楯突いたら、どうなるか教えてやる! サキは俺のものだ!」


 ジェンはサキしかみえずに、狂っている。

 まるで、薬をやっている人間のように、目が血走り、目をかっ開き、頭がおかしい人間に見えた。


 ジェンが俺に乗り上げながら、顔を拳で執拗に殴ってくる。

 痛い、痛すぎる。

 俺はここで死ぬんだろうか。

 俺はせめてもの抵抗で、手でジェンの拳をガードした。

 だが、強い衝撃が顔に走り、柔らかい顔が破壊される感覚がしていた。


「こっちよ!」


 朦朧とする意識の中、知らない女の人の声が聞こえた。

 雨の音と、複数人の足音がした。


「止まれ、離れろ!」


 その声が聞こえた後、体にかかっていた重みが無くなって、いくらかマシになった。

 顔がすごく熱く、顔の感覚が感じられない。

 もう痛みがなかった。


「聞こえるか?」


 知らない男の人の声が耳元で聞こえる。

 俺に言っているのか、わからなかったが頷いた。

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