第5話
今までありがとう、またねと言ってサキは俺の家から出て行った。
サキとの突然の別れを受け入れることができず、俺は酷く落ち込んでいた。
まだサキと別れてから、二十四時間も経っていない。
次の日は仕事なのに、昨日から眠れず、ずっと負の感情に支配され、膝を抱え、ベットの上に座りこんでいた。
時間は決して止まることなく、流れていく。
ブラインドの細い隙間から、光が見える。
真っ暗な部屋で、時計に目を遣ると、時刻は午前六時を示していた。
長い夜が明けて、朝がきた。
体がとても重く、何もしたくない。
でも、八時には家を出なければならない。
*
足元に皿が落ち、大きな音を立てて皿が割れた。
その音で意識が一瞬鋭くなり、目の前の状況が鮮明に目に映った。
厨房の外を見渡すと、レストランのお客が驚いた顔でこちらを見てる姿が目に入った。
床を強く踏み抜く足音が近づいてくる。
その足音の主に目を向けると、毎度お馴染みのシドニーだった。
「ちょっとあんた! 皿を割ったね!? 給料から引いとくから! ちゃんと仕事しなさいよ!」
シドニーが睨み目に冷たい声で俺を怒鳴る。
「本当にごめんなさい、もうしないように気をつけます」
俺は、自分でもわかる弱々しい声でシドニーに謝った。
「もーうざい! そんなに弱々しいならいよいよ解雇だね! あんたから元気もなくなったら何もできやしないよ! ただでさえ、使えないんだから、たまったもんじゃないわ」
シドニーは癇癪を起こしたように、大袈裟に頭を揺らして、手を広げ、俺に悪口を軽く叫びながら厨房の前から去っていった。
やばい、しっかりしないと。
なんとか意識をしっかり保って仕事に集中するように心がけた。
だが、サキが気になって、サキの姿が頭から離れなくて、また俺は意識が朦朧としていた。
「あー! ふざけんじゃないわよ!」
シドニーの叫び声がすぐ近くから聞こえて、朦朧としていた意識がまた戻ってきた。
声が聞こえた方向を見ると、顔を歪ませ、真っ赤にしたシドニーがこちらを向いて目の前に立っていた。
俺に言っていているのか?
何のことだかわからない。
「どうしましたか?」
俺はシドニーに聞いた。
シドニーは俺に詰め寄ってきて、そしてなんと俺の胸ぐらを掴んだ。
「この役立たずの根暗野郎! お前のせいで私がお客様から酷く怒られたんだよ! お前テーブルちゃんと片付けてなかっただろ! お客様の高級な服に頼んでない筈のケチャップの染みがついたんだよ! クリーニング代弁償だよ、後でお前が返しな!」
シドニーがすごい勢いで俺の胸ぐらを掴んだまま、怒鳴り散らす。
彫りが深く、中年の凄みがでた怒り顔は、俺をすぐ恐怖で縮み上らせる。
「すみません! すみません! 本当に心からすみません!」
俺は何回も繰り返し謝った。
シドニーが大きな舌打ちを鳴らして、俺の胸倉を掴んだ手を更に乱暴に押し込み、俺の胸倉を突き放した。
俺はシドニーの強い力に負けて無様に後ろによろけた。
自分が恥ずかしい。
羞恥心が体を突き抜けて、血の気が引いてく感覚。
「閉店したら、話がある」
シドニーはさっき怒っていたのが嘘のように、無表情になり、冷静な声で俺にそう言って、また去って行った。
閉店し、数人のスタッフしかいない静かな店内でシドニーと俺は二人向き合っていた。
「あんたは今日で店をクビだ」
シドニーが単刀直入に言った。
俺とは必要最低限の会話しかしたくないようだ。
そうだろうな。
「はい……」
俺はイエスとしか言うしかなかった。
この職場でもう潮時なんだと。
シドニーの気持ちはよくわかる。
俺は色々な失敗をした。
経営者の立場としたら、こんな従業員いらないだろうな。
英語も聴き取れないことが多いし、簡単なことしか言えないし。
「そう、理解が早くて助かるわ。あんた、発注の数も間違えてたわよ。品が切れて、あんたが休みの時、困ってたんだから」
シドニーが淡々と言った。
いつものように怒ることはなく、もう俺がクビだからか、ただ俺に呆れて報告するような態度だった。
「あと、クリーニング代あなたが弁償してね。金額送るから、ここに返しといて」
シドニーが銀行口座をメモした紙を俺に差し出してくる。
「はい」
俺はシドニーから受け取った。
シドニーは目をしばしギュッと瞑って、開くと、もううんざりという顔をした。
そして俺に言う。
「あんたはミスも多かったけど、それだけじゃない。あんたはエネルギーがない。周りのスタッフともコミュニーケーションをあまり取ろうとしないし、いつも暗くて元気がない。問題はあんたのメンタル自体だよ。それがわからなければ、一生あんたはどこ行っても変わらないさ。ま、私には知ったこっちゃないけどね、じゃ元気で」
シドニーがそう言い残し、踵を返し、店の奥へ行ってしまった。
メンタルの問題……。
それがわからなければ、どこ行っても一生同じか。
よくわからない。
だだ、また辛くて苦しい思いになった。
家に帰ろう。
新しい仕事探さなきゃな。
俺はあれから、映画のチケット販売の受付の仕事を始めた。
相変わらず、ミスもする。
そして、何だか自分が浮いていて、ここは場違いだっていう雰囲気をその職場でも感じていた。
広い家で虚しさを感じながら、ご飯を食べて、寝て、仕事に行く日々。
俺は何がしたいんだ。
なんで生きているんだろう。
サキと出会って、ドキドキして。
サキと過ごして、楽しさと、温かさと、安らぎを感じた。
サキがいなくなって、悲しさと、虚しさと、切なさをより知った。
あれから二ヶ月、まだサキのことが頭に浮かぶ。
携帯の通知音が鳴り、携帯を開くと、叔父さんからメッセージが届いていた。
そこにはこう書かれている。
親愛なるトウマ、しばらくぶりだが、元気にしているか?
ご飯もしっかり食べ、たくさんのかけがえの無い楽しい思い出の中、過ごしているだろうか。
仲の良い友達はできたかい?
お金のことは心配しなくてもいいから、好きなだけ食べ、したいことを思いっきりするんだよ。
忙しかったら、また返信できる時に返信すればいいよ。
トウマを愛する叔父より。
俺は叔父さんのメッセージを読んで、優しい言葉にたまらなく切なくなり、今までの辛い気持ちが頭を駆け巡り、どうしようもなくなって、涙がボロボロと流れ出した。
「っ、お、叔父さんっ! 俺っ、ぜんぜん、うまくやれてないよっ……」
携帯を握りしめて、叔父さんがそこにいる訳でも無いのに、気持ちが昂って一人ごちた。
そうだっ、叔父さんに電話しよう。
叔父さんだけが俺が心許せる一番の味方だ。
叔父さんは気を遣って、返信はできる時でいいと書いてくれたが、忙しい所ではない。
俺には、むしろ今すぐ叔父さんが必要だ。
俺は電話帳を開くと、叔父さんに電話をかけた。
「もしもし、トウマか?」
ニコール鳴ったのちに、電話口から聞き慣れた叔父さんの優しい声が聞こえた。
「俺だよ、トウマだよ」
明らかな涙声で俺は叔父さんに言った。
「電話をくれるとはな、嬉しいよ。ありがとう。元気にしてたか?」
叔父さんは電話口からでもわかるぐらい、俺の電話を喜んでくれているような声色をしていた。
俺は、叔父さんの様子と元気にしてたか?という言葉にやられて、大きく咽び泣いてしまった。
「ト、トウマ? どうしたんだ? 何かあったのか?」
とにかく泣いて、言葉が続かない俺に叔父さんは驚いたような声で聞いてきた。
「ご……め、ん! うぐっ、お、おれ……」
「うん。うん。泣いて落ち着いたらでいい」
叔父さんは、俺が落ち着くようにと待とうとしてくれた。
俺はうまく言葉を口に出来ないながら、話そうとする。
「こっちでも、やっぱり上手くいかなくてっ、生活も仕事も上手くいかなくてっ、何も楽しくないんだ。もう生きている意味がわからない……」
「そんな……トウマ。何でも好きなことをしていいんだぞ? 無理にしたくないことをしなくてもいいさ。君には生きる意味はある。今は自分自身を見つけられなくても、トウマが生きてることで幸せな意味を私にもたらしてくれてもいる。他者に意味を与えてることもあるんだ。うん、なんて言ったらいいか、私も混乱してきたが、トウマの生きる意味はトウマが生きているからこそ、私を幸せにしてくれてることでもある。すまない、動転してしまっていい言葉が見つからない」
電話口の叔父さんは必死に俺に想いを伝えていた。
俺は、一番心配してくれる叔父さんに、こんなことを言ってしまって、物凄く申し訳ない気持ちになった。
俺が悪い。
でも、叔父さんが伝えてくれた俺の生きる意味は伝わった。
でも、どうすれば、上手く生きていけるんだろう。
それは、出口のない迷路だ。
「ごめん、叔父さん。いつも俺の味方でいてくれて、ありがとう。俺、どうしたらいいかな……」
「そうだな、気分転換にいつも自分がしたことが無いことをしてみるのはどうだ? 合わなかったらやめればいいさ。それと……あ、そうだ。仕事なんだが、嫌ならやめればいい。だが、もしトウマが働く意欲があるなら、いい職場があったよ。私の古い馴染みがしている仕事でね、温厚な奴だから、きっとトウマも気持ちよく働けるかもしれない。どうだろう?」
叔父さんがとても優しい声で、素晴らしい提案をしてくれた。
嫌なことはしなくていい。
そして、新しい仕事の当てもあると。
俺はそれを聞いて、心のどこかに希望が、明るい気持ちが湧いた気がした。
今の嫌な職場を辞めることができる。
「うん、新しいことに挑戦してみるよ。俺、働きたい、立派になりたいんだ。叔父さんの馴染みの人の職場で良かったら働きたい。いいかな?」
「そうか、良かった。無理はしなくていいんだからな。もちろんだとも、きっとトウマに悪いことは起きないさ、良い奴なんだ。連絡しとくよ」
叔父さんは優しい明るい声で言った。
こんなに叔父さんが言うんだ、きっと良い人なんだろう。
それから調子がいくらか戻った俺は、叔父さんと他愛無い会話をいくつか話して、おやすみと電話を切った。
サキと出会って、別れてからの俺は、元々そうだった気もするけど、ますます抜け殻で、ゾンビのようだった。
何もかもが俺を通して、色褪せて見える。
サキから見える世界は色鮮やかなのだろうか。
きっとサキのことは一生忘れられないんじゃって思うほど、苦しいけど、いつまでもこうしてはいられない。
叔父さんは一つ、俺の生きる意味を教えてくれた。
やったことのないことに挑戦して、叔父さんの紹介で新しい仕事に就いて、そしてまたサキみたいな素敵な人に出会えるかもしれない。
まだ人生は続いていく。
俺はちょっと躓いていただけのようだ。
サキ、浮かんでは消えて、離れない。
綺麗で、笑顔がもっと可愛くて素敵な人。
今はまだサキを超える素敵な人なんているのかなって思ってしまう。
きっと、忘れられない。
でも、今はやれることをやってみるだけだ。
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