ル・カフェー・ギャルソン4 胡桃の話

つき

胡桃

昔から胡桃くるみの殻を割るのが好きだった。


父がよく、パチンコ屋の帰りに商店街の果物屋でたんまりと買ってきてくれた。

それを皆でせっせと割り、煎って食べるのだ。


母は料理が得意だったが、お洒落な人で、ネイルが痛むからと胡桃割りだけは嫌がっていた。

そこで、いつも僕と弟が殻剥き競争をする流れだった。


父はいつも食べる専門だった。


兄弟で力を合わせ、胡桃割り器で一通り剥き終えると、母は花柄のエプロンを着けて、鼻歌を歌いながらフライパンをIHコンロにかける。


そのうち、ガラガラ、パチッと良い音を立て、胡桃は満遍なくフライパンの中を転がる。

だんだんと薄っすら茶色の焦げ目が付いてゆく。


キッチンに香ばしい匂いが広がり、僕は頃合いを見て、いそいそとガラスのキャニスターを戸棚から取り出す。


じっくりと加熱された胡桃を、バットに広げて暫く冷まし、それからキャニスターに詰められ、やっと僕達の口に入るのだ。


僕はそんな子供時代を思いながら、カフェのケーキメニューを息を潜めてじっと見詰めた。


先程、この駅ビルにあるカフェで、入社してから初めての商談がまとまった。

自分が原案から任せてもらえた一件だ。


こんな懐かしい回想をするなんて、僕は嬉しさで興奮のあまり、どうかしていたのかもしれない。


同席してくれた先輩は、先方と一緒に店を後にしていた。


冷め切った珈琲の残りを喉に流し込み、ふぅ、と一息吐いて、もう一度メニューを一瞥してみる。


やはり、胡桃だ。


そこに、胡桃のケーキというものを見つけた僕は一瞬で、幼い昔に思いを巡らせてしまったのだ。


不思議なもので、子供の頃の好物は生涯忘れないという。

胡桃の文字を見ただけで、鮮やかな母のエプロンの柄までも思い浮かぶ。


母さん。もう随分、見舞いに行ってないな。


僕は軽く手を挙げてギャルソンを呼び、一度会計を済ませて領収書を貰い、改めてケーキと珈琲のおかわりを注文する。


黒いエプロンにリボンタイを着けた、今どきの若者風のギャルソンだ。

彼はオーダーを取りながら、人の良さそうな笑顔を浮かべて


「こちらのケーキは、男性の方にも大変ご好評いただいております。」と一言付け加えた。


さて、運ばれてきたタルトケーキは、この気取った店に似合わず、素朴な見た目をしていた。


僕はケーキを一口、掬い入れる。

美味い。

また一口。


…駄目だ、もう止まらなかった。

フォークではなく、涙が、次から次へと溢れて止まらない。


大切な商談が決まり、今、最高に嬉しい筈なのだ。

僕はコントロールの効かない涙腺を恨みながらも、そのまま一口、また一口とケーキを食べ進めた。


胡桃が生地にたっぷり練り込まれ、洋酒のほんのり効いたそのケーキは、ホロホロと香ばしく、まるで本当にあの懐かしい胡桃のような味わいだった。


僕は母さんを思い浮かべる。

実家の母が入院して、もう数年が経つだろうか。


僕が子供の頃はあんなに華やかで気丈だった母さんが、いつの間にか気持ちを患い、

いつしか身も心も、まるで色彩が抜け落ちてしまったようだった。


僕が高校生の頃には、家中から色という色が消え去り、家具も壁紙も真っ白に変わり果てた。


母はいつも大きな白いソファーに身を横たえて泣いていた。

でも、大学で忙しかった僕も弟も、知らないふりをした。


異常な白い空間で、それでもインテリアが白に取り変わっただけだ、とどこか他人事だった。


昔から横柄で勝手気ままだった父は、白い家でもさほど気にもしなかった。

ただ好きなギャンブルに益々のめり込んでいき、ある日もう帰って来なかった。


それ以来、我が家には胡桃を煎るガラガラとした賑やかな音は永遠に無くなったのだ。


僕も弟もそれらを目の当たりにしながら、どうする事も出来なかった。

ただ、楽になりたかった。


そして母を病院へ預けた。

僕も弟もこれで救われた、と思った。


でも、何も解決などしていなかったじゃないか!


僕はケーキを掬いながら、

自分が何故、泣いているのか、悔しいのか悲しいのか、分からなかった。


何故、あれ程避けてきた胡桃を今日、頼んでしまったのか。

何故、あの父と同じ様に、母を見捨ててしまったのか。


何故、何故…と答えの無い自問自答を胸の内で繰り返しながら、最後の一口を塩辛さと共に噛み締める。


随分長く感じたが、ほんの束の間だったのだろうか、まだ熱い珈琲を流し込んで、我に返った。


大好きな母さん。

そして、懐かしい父さん。彼とはもう会うことは無いが、この先もずっと懐かしく想い続けるのだろう。


それまで自覚しなかった父への怒りは、胡桃の爆ぜる音と共に、何処か彼方に消えてゆくように感じた。


同時に、母を哀れんでも良いのだ、と気付いた僕は、急いでペーパーナプキンで口を拭ってから、携帯電話を取り出す。


そして早る気持ちを抑えながら、もつれる指先で弟のアドレスを出し、さて久し振りで、なんと打てば良いかと迷う。


しかし、僕達は同志だ、あの真っさらな刻を共に過ごしたのだ、と思い立つ。

それから滑らかに指を運んでゆく。


涙はもう乾いていた。


fin











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ル・カフェー・ギャルソン4 胡桃の話 つき @tsuki1207

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