第11話 逃亡と追跡

「ひ、ひぃ……っ!」


 危難の目前で少年は木々の間を縫うように駆けていた。転びそうになる足を何とか前に出し、木の幹に手を突いて身体を動かす。チラリと走ってきた方向に目をやると、そこに生えていた樹木が圧し折られるのが見えた。


「な、なん、でっ、こんなっ……事にぃっ!」


 息も絶え絶えになりながらも彼は走る。そして数時間前の不用意な行動を、心の底から悔いていた。


 少年は農家の五男坊だった。といっても彼の家が持つ畑は小さく、とてもではないが家族全員を食べさせるだけの余裕はない。それ故に家を継ぐ予定の長男を除く年上の兄弟は、全て方々の町へと出稼ぎに行ってしまった。


 少年もまた、彼らと同じように家を出る。しかし彼にはこれといって目立った特技は無く、然して良い頭も持っていなかった。そんな者が選べる生業など、そう多くは無かった。


 少年は、そうして冒険者になったのだ。


「はぁ……っ、はぁ……ッ!」


 だが世の中はそんなに甘くは無かった。

 他の事が出来ない人間が、冒険者になった途端に大成するなどというのはお伽噺の類である。十五で家を出て一年、当然ながら彼は駆け出しのまま。簡単な、誰でも出来る依頼を受けては宿代と食事代をなんとか稼ぐ毎日を繰り返していた。


「ぜッ、はッ、くぅ……ッ」


 そんな日々に嫌気がさした。自分も強い魔物を倒して活躍したい、冒険の末に希少な物を手に入れて良い生活がしたい。欲を掻いた少年は、いつもよりも深く森へ入ってしまったのだ。


 魔物が咆哮する。


「ぎゃっ」


 もはや叫ぶ余力も無い、小さく呻くように悲鳴を上げるのが精いっぱい。それでも彼は走る、命が惜しいから。そして何より、死んで蘇生となったら借金生活に落ちてしまうからである。


 藪を掻き分け、木々を縫い、根に躓きながら転がるように。


 腰に鉄の長剣ロングソードを佩いた少年は、背後に迫る危機から逃げる。






 ジョニーとリーシャは森の奥へと歩を進めていた。燦燦と降り注ぐ日光を樹木の葉が遮って森の中は少し薄暗い。地面の枯れ葉が分解される熱で少し蒸す。時折吹き抜ける風が実に心地いい。


 人の五倍六倍の高さを持つ巨木を越えた先は、森の中でも奥地と言われている。より多くの魔物が蠢いており、今回の依頼の対象である縞猪シュトライバーンもそこに多く生息しているのだ。


「そっち大丈夫か」

「はい、ジョニーさんが歩く所を選んでくれているので問題ありませんっ」

「そうじゃ無ぇよ。魔物がいないかって聞いてるんだ」

「そっちも問題ありませんっ」


 言わずに行っていた気遣いを見透かされて、ジョニーは少しばかり照れた。自分の半分の歳の少女に看破されたのが余計に恥ずかしい。中々の慧眼を持つリーシャは、彼の背後でくすくすと笑っている。


「と、とにかくだ。縞猪シュトライバーンは縄張りに入った敵を察知すると突っ込んでくる、逃げても逃げても追ってくる。だから先に見つける事が重要だぞ、見つかってからじゃ取れる対策なんてたかが知れてるからな」

「分かりました、頑張って探しますっ」


 ジョニーに役割を与えられた彼女は、手をひさしにして右を左を見回した。わざとらしい動作だがリーシャは本気で魔物を探している。事実、発見された哀れな鼠に向かって毒ガス薬草球を投げ付けているのだから。


 聞こえる断末魔の声。ジョニーは気にしない事にした。


「ん」


 耳に何かの音が入る、鼠の臨死の喘ぎではない。


「おい、少し静かにしろ」

「はい」


 先程までと違うジョニーの声に、リーシャもまた笑みを消して真剣に応じた。


 耳を澄ませる。

 何かが遠くで、騒いでいる。


 それは次第に近付いてきている。

 ガサガサと藪を掻き分け、何かが。


「……くるぞ」


 腰のナイフに手を掛け、姿勢を低くして身構える。


「ふッ!」

「ぴぃっ!?」


 藪を突っ切って現れた相手に一瞬で接近し、その首元にナイフを突きつけた。が、そこで相手が年若い冒険者の少年だと気付き、手に込めた力を抜く。


「なんだ、お前。というか森の中で騒ぐな、もうちょっとで首を掻っ切るトコだったぞ」

「す、すびば、ぜぇっぜぇっ……ぜんっ!」


 息も絶え絶え、謝罪の言葉も途切れ途切れに少年はその場にへたり込む。彼の様子を見て、ジョニーはすぐさま何が起きているかを把握する。


「魔物に追われてきたか。何から逃げてきた」

「ぜっ、ぜぇ……っ、しゅ、縞猪シュトライバーン、でずぅ……うぅ」

「チッ、面倒な事しやがって」


 彼は吐き捨てるように言って、すぐにリーシャに指示を飛ばす。


「開けた場所に出るぞ。その小僧に手を貸してやれ、歩けないようなら捨てていけ」

「分かりましたっ。さ、行きましょう」

「あ、ありがとう……」


 可憐な少女からスッと差し出された手を掴み、少年は立ち上がった。


 縞猪とは人の背丈を超える体高の巨大な猪だ。一般的な猪の仔うりぼうと似た模様の縞を成体も持ち、口には上向きに生える二つの鋭い牙がある。言うまでもなく獰猛な魔物であり、未熟な冒険者ではその突進で容易に轢き潰されてしまう。


 縄張りを荒らした者には容赦せず、何処までも追跡して確実に殺す。獲物を狩るのに邪魔な障害物は全て破壊し、一直線に向かってくるのが特徴だ。


 つまりは障害物がある場所で対峙すると、破壊されたそれらが回避の邪魔になってしまう。万が一にも蹴躓けつまづくような事があれば、再度の突進で確実にやられるのだ。


 だからこそジョニーはすぐに行動した。森の中でも比較的開けている場所。巨木によって日光が遮られて他の木が生育できない、奥地との境の目印であるその場所へ移動する。


「なんとか間に合ったか」


 そう言ってジョニーはリュックサックを放り捨てる。魔物が接近していて確実に戦闘となる状況で、野営道具などはただ邪魔なだけだ。


 ある方向の木々が音を立てて倒れる。一本、二本、まとめて三本。怒り狂う魔物の怒気をそのまま表すように、整然と立っていた樹木が圧し折られていく。そしてそれは、段々とジョニー達へと近付いて来ていた。


「面倒臭ぇ」


 奇襲も闇討ちも、罠にかける事も出来ない正面衝突。最も労力を要し、一番疲れるうえに危険が最大となる愚策である。しかし捨てて行けと言ったものの流石に目の前に現れた少年を見捨てるのも寝覚めが悪く、このまま逃げ続けるのも現実的ではない。


 となれば、やるしかないのだ。


 木の高さをそのまま半径とした円形の空間、その一か所に穴が生じる。圧し折られ、吹き飛ばされた樹木が宙で一回転してジョニー達の至近に飛んできた。


「きゃっ」

「うわぁっ!」


 リーシャが驚き、少年が叫ぶ。


「お前ら、木の影から出るなよ」


 縞猪から目を離さず、ジョニーは指示を出す。腰のナイフを抜いて、いつ突撃が来ても対処できるように構えた。


 茶色の巨大な影が木々の間から飛び出てきた。猪はドドドと大地を踏み鳴らし、荒い鼻息を鳴らす。障害物が存在しない空間の中でただ一人、己に対峙しようと立っている存在へと縞猪は突っ込んでいく。


 猛スピードで接近してくる巨体、しかしジョニーはジッと相手を見据えるだけで動かない。


 接近。接近。接近。


 目前まで迫った猪が首を下げ、鋭い牙で彼を突き上げようとしたその瞬間。

 遂にジョニーは動いた。


「よっ」


 右へひらりと回避、と同時に彼の手にある刃がスッと線を描いた。


 縞猪の左前脚からバッと鮮血が噴き出す。


 だがその程度では人間の倍の背丈を持つ魔物は怯まない。ジョニーへと向き直った猪は前足で大地を蹴手繰り、ブゴッブゴッと荒く鼻息を吐く。総身の毛が逆立っており、怒り心頭となっているのが一目で分かる状態だ。


「ハッ、やり返されてご不満かい?」


 わざとらしく肩をすくめて、ジョニーは相手を挑発する。更なる燃料を投下された縞猪は目を血走らせ、大きく咆哮した。


「きゃ」

「ひぃぃッ!?」


 びりびりと大気を震わせるほどの声にリーシャは手で耳を塞ぎ、少年は頭を抱えて悲鳴を上げたうえに身を縮こまらせる。


「うるせぇな。鳴いてないで掛かって来い、特別に相手してやるからよ」


 手の中でナイフをくるりと回転させ、ジョニーはその切っ先を魔物に向けた。


 縞猪が脚に全力を込め、大地を蹴る。


 命の危機にあって冒険者は。


 その顔に笑みを浮かべていた。

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