ありふれた死

芳野ガリ

1

 ああ、死んでしまうなんて馬鹿なやつだ。


 彼女の訃報を聞いて、最初に思ったのはそんなことだった。


 彼女の死を知ったのは、研究室で論文を読んでいた時だった。学生時代の友人から彼女の訃報を伝える電話がかかってきたのだ。一人暮らしのアパートで亡くなっていたそうで、電話をくれた彼も詳細は知らないという。


 理系の研究職。この業界は結構死人が多い、と思う。どこの業界でも同じなのかもしれないけど、私は知らない。


 俗に、博士課程の学生100人のうち、10人は自殺か行方不明といわれる。さすがにこれはかなり大げさだが、この世界にいる人でどこどこ研の誰それが死んだという話を聞いたことがない人はいないのではないだろうか。私が大学院にいた五年間だけでも、2人の院生が構内で自殺している。


 元々メンタルが弱い人が多いのか、それとも大学という特殊な世界の体質のせいなのか。私が彼女の死を知っても特別驚きはしなかったのは、こういう事情もある。


 それが普通かそうでないかはともかく、誰かが自殺したと聞いても正直またか……という程度の反応しか皆示さない。ああ、あの研究室の人……といって同情されるパターンもある。不幸なことに、彼女もまたこのパターンに当たっていた。


*


「え、自殺じゃないの?」

「入浴中に溺れたんだって。睡眠薬と酒飲んでたらしい」


 彼女の故郷へ向かう新幹線の中、電話をくれたSが話してくれた。


「入浴中って……じゃあ事故だったの?」


 隣席の友人Tが軽く目を見開いた。訃報を聞いて当然のように自殺だと決めつけていたのは、自分だけではなかったらしい。


「警察が来たけど、はっきりは分からなかったって」

「遺書はなかったの?」


 私の問いにSは首を横に振った。


「メモがあったらしいよ。でも、遺書と言えるかは微妙な内容だったんだって」

「自殺だとして……原因はやっぱり……」

「あんなところに7年もいたんだ。おかしくもなるよ」


 そうポツリと言って、Tは目を伏せた。それきり、しばらくの間誰も口を開かなかった。


*


 私たち4人は大学時代の研究室仲間だ。研究室の教授はその分野ではとても有名な人で、輝かしい研究実績を誇る、分野ではちょっとした有名人でもあった。SとTは修士課程の修了と共に、私は卒論の合格が決まると逃げるように彼の元を去ったが、死んだKだけは、その後も6年、教授の元に居続けた。


 私たちのいた大学では3年次の後半から研究室に配属されて卒業研究を始めることになっていた。どこの研究室に入るかは自分で決められるが、研究室にはそれぞれ定員が決まっている。だから、人気があって定員以上の希望者があった研究室はくじを使って配属学生を決める。私は当初、別の研究室を希望していた。でも、どうにも運がなかったらしい。そして、あの研究室に入ったのだ。


 輝かしい実績や学外にも知られる高名さの割に、教授の研究室には人気がなかった。最初から外部の大学院に行くつもりだったから、正直なところ、必要な実験スキルが身につくなら研究室はどこでも良かったのだ。その研究室は非常に設備が整っており、お金があるともっぱらの評判だった。


 そんな研究室に学生の人気がないのには、当然ながら大きな理由がある。その点を深く追求しなかったことを、すぐに後悔することとなった。


 同時期にその研究室に入ったのは4人。学部生は私とK。SとTは修士課程の新入生で、別の大学を卒業した人だった。研究室には教授を筆頭に准教授、助教、技術員が一人ずつおり、学生は博士課程が2人所属していた。そこに私たちが加わって、研究室は総勢10人という、それなりに大きな体制となった。


 研究内容について改めて説明を受けた後、教授と准教授のどちらの研究に加わるかを決めることになった。ちょうど2対2で別れたので、話し合いはあっという間に終わった。私とSは准教授、KとTは教授に付くことになった。思えば、これが運命の分かれ道だったのかもしれない。


 しばらくして研究室の新歓が開かれることになった。しかし、その歓迎会は少しおかしかった。教授が参加しなかったのだ。私たちは少し不安になって、教授に理由を尋ねた。返ってきたのは飲み会が嫌いだという返事と一万円札だった。当日、教授は定時になるとさっさと帰宅してしまった。


 新歓には教授以外の全てのメンバーがそろっていた。幹事役の先輩を含め、私たち以外、誰も教授がいないことを不思議に思っていなかった。聞けば、教授は飲み会が嫌いで、参加はもちろん、研究室内で学生が企画するのもいい顔をしないらしい。教授に渡された一万円を幹事に渡すと、彼はなぜか嫌そうな顔で、まるで汚らしいもののようにお札をつまみ上げた。


 一次会は比較的和やかに進んだ。お互いに自己紹介をし合い、これから仲良くやっていこうと和気藹々とした雰囲気であった。しかし、助教がポロリと「新たなる犠牲者」と言ったことに、私は何となく嫌な予感を覚えた。


 助教授と技術員さんが帰宅して、二次会参加者は助手と学生だけになった。彼らはものすごい勢いでお酒を飲み、とんでもないことを話し始めた。


「そういえば、今教授が飲んでるのってXXXでしたっけ?」

「いや、今はXXXらしい。この間飲んでるの見た」


 耳馴れぬ単語だった。何の話をしているのか聞いてみると、博士課程の先輩はニヤリと嫌らしい顔を浮かべた。


「教授の飲んでる睡眠導入剤と抗うつ剤の話」


 思いがけない単語に呆然とする私たちを尻目に、彼らは堰を切ったように教授の秘密を話し始めた。教授は長く精神的な病に苦しんでおり、学校近くの精神科に通っているらしいこと、そしてかなり強い薬を服薬中であること……。


 あっけに取られていた私たち四人に、先輩たちはあっけらかんと驚くべき告白をしてきた。なんと、彼ら自身もカウンセリングに通っていると言うのだ。今はXXXという睡眠薬を飲んでいる、あそこのカウンセラーは美人だけど使えない……。私も含め、新入生4人がすっかり無口になったことは言うまでもない。


 適当な相槌を打ちつつビールジョッキを煽りながら、私はこの仲間には絶対になるまいと思った。


 でもそれは、とても儚い誓いだった。

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