ストックホルム症候群

下崎涼人

第1話 朝のコーヒー

 一杯のコーヒーから私の完璧な毎日は始まる。

そう自分の心に語りながら、控室のコーヒーマシーンにマグカップを差し込んだ。

8歳の娘から誕生日にもらった空飛ぶウサギのマグカップの底には、洗っても取れないほどのコーヒーの跡が付き始めていた。

マシーンが不機嫌そうにコーヒーを吹き出すと、私は事務所のドアを開けた。空港事務員のデイブがいつものように声をかけてきた。


「おはよう。またコーヒーかよ、ザック。」

「おはよう、デイブ。俺のルーティンなんだよ。今日は忙しくなりそうか?」

客次第だな、と曖昧な答えをデイブは言うと、今日のフライトプランをよこしてくれた。フライトプランにはその日の飛行計画や到着地点に関する詳細な情報、乗客の数や運搬する貨物の重さまで事細かに書かれていた。

 

 一通り目を通すと、連邦航空法に基づく呼気検査を行ってから、チーフにネームプレートを受け取った。金色に輝くネームプレートには「機長:ザック・コルソン」と刻印されており、それをワイシャツの胸ポケットに留めた。手鏡を見ながら身だしなみを整えていると、ジェファニーCAチーフが話しかけてきた。

「コルソン機長、そろそろブリーフィングを。」

優しい声色と照明によって一層輝いて見えるブロンドヘアをもつ彼女は、鋭い目つきで自身の細い腕に巻き付けた腕時計を見つめた。


「毎日コーヒーを飲みながら、鏡を見て機長は我々と同様に大変ですね。」

「ああ、身だしなみの大変さを共感できる相手がいてよかったよ。」

私はジェファニーに心ばかりの皮肉を込めて、満面の笑みで持っていたマグカップで乾杯のしぐさをした。



「みんな、ようやく集まったな。」年々少しずつ寂しくなっている頭を労わりながら、グランド・ディスパッチャ―のエドワード係長がブリーフィングを始めた。

「まずはグランド・ディスパッチャーとして、今日のロサンゼルス国際空港(KLAX)の天気は一日を通して晴れ。風向きは南西方向に15マイルほど。到着先のアイオワ州シーダー・・ラピッズ空港(CID)の天気は曇りになりそうだ。」


ありがとう。チームリーダーも兼ねる機長の私がそう言うと、さっき貰ったフライトプランを目線の隅で見ながら、ジェファニー次の報告を促した。

「皆さんおはようございます。CAチーフのジェファニー・クリフォードです。本日のフライトはロサンゼルスからアイオワまでの短いフライトですが、241名様とほぼ満席となっております。またお客様の中には、車いすの方が今回3名様いらっしゃいますので、健常者のお客様よりも20分ほどお早く機内へご案内させていただきたいです。」

オッケー。“車いすx3/20分早く”とフライトプランへ殴り書いた。

バラの棘のように鋭い嫌味さえなければ、非の打ち所がないCAなのだが。そう思いながら、席に着いたジェファニーを見つめていると、私の隣に座っていた男が立ち上がった。


「どうも、皆さん。副機長のストリンガーです。我々パイロット側からですが、本日のフライトはロスからの出発後ディスパッチャーの指示のもとに離陸後、高度4万1000フィートまで上昇し、北西に予想される雨雲を避けてアイオワまで飛ぶ予定となっております。これに伴い、機内で多少の揺れが生じると思いますので、その際にはCAはフォローアップをお願いします。また車いすの方々もいらっしゃるとのことですので、より一層丁寧なフライトを心がけます。以上です。」

ストリンガーの説明はいつも簡潔でいて、言葉の節々に語彙を感じさせるものだった。

 航空会社の副機長試験を最年少の37歳で取った元弁護士の彼と組めるのは、私としても頼もしく、無論今回のチーム全員も彼のことを尊敬していた。

にこやかな顔で周囲を見渡しながら席に着くと、エドワードがブリーフィングを締めた。


 各々がこれからやるべき仕事にとりかかろうとする中、ぬるくなったコーヒーを異に流し込むと、ストリンガーと共にキャリーケースを持って、賑やかな空港ロビーへ歩みを進めた。


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