僕の卒論のやり残し

すけだい

第1話

『僕の卒論のやり残し』

 僕がひどい出来の卒論を書くときに指導教官からもらったーーもしかしたら借りパクしたーー本が2つある。1つはニスベット著の『共同他の探求』。もう1つはデ・グレージア著の『疎外と連帯』。

 前者がメインでもらい、後者はおまけだった。ニスベットの作品がどうもしんどくて卒論が滞った。今読んでもしんどい。

 一方でグレージアの作品は簡単なものだった。アノミーの話をしている。連帯の意識がなくなると疎外の感情が生まれることを一貫して述べている。

 グレージアの作品が単純すぎるかもしれないが、一貫性があることは評価できる。一方でニスベットは複雑と言おうか、一貫性がないと言おうか、何と言おうか。グレージアにおけるアノミーみたいな分かりやすい筋がない。

 共同体を探求しているのはわかるが、そこに法則性が見えてこないのだ。ここは同じくもらった作品からアノミーを利用してみよう。この作品もアノミー一色にしよう。

 共同体が壊されアノミーが発生して、人は共同体を探求するようになる。小さな共同体が存在すれば人々に個性はあるけど、小さな共同体がないから個性のない大衆となる。歴史とはアノミーの歴史であり、新たな共同体が必要だ。

 そう解釈した僕だ。かなり自己満足な解釈もあるだろう。自己満足ついでに、別のところで述べたデータによるリスク監視のハイブリッドモダンを加えてみる。

 大衆化された人々は画一的な数字の1つとなる。数値化された人々を監視して上から近代化させる新たな共同体が探求される。

 そんなことが実際に起きるのか? スポーツを見てみよう。

 バスケでは統計学によって、3pシュート合戦になっているようだ。個人のトリッキーなプレーを度外視して効率的に点を求める。

 野球では統計学によって、ボールの回転数や打球角度などの数値が見られている。選手に理想の回転数や角度を求める。

 いろいろなスポーツでも、心拍数などの数値で監視されている。

 そういうデータ至上主義はつまらないと古い価値観から揶揄されている。しかし、新しい価値観ではデータがないとつまらないと昔を揶揄する。

 スポーツにおいて、数値化された人々を上から近代化する共同体が生まれた。データ遊びやデータ収集の過程を重んじた結果、優勝などの目的を後から達する。ポストモダンの様相を持つ。

 さらに、有り体なことを述べると、スポーツに国も人種も宗教もない。それが数字によってさらに境目がなくなった。人は数字しか見なくなる。



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僕の卒論のやり残し すけだい @sukedai

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