第2話 仕事と自分の身体、どちらが大事?
この店の近くは、どこかの保育園のお散歩コースらしい。薫がオープンの準備をしていると、時々お散歩中の子どもたちや保育士の笑い声が聞こえてくる。
薫も小さな子どもは好きだった。ふと、レジ横に飾ってある写真立てに目を移す。
保育園が近くにあるということもあり、仕事終わりの保育士もたまにこの店にやってくる。この日の夜も、近所のあおぞら保育園に勤める皆川咲楽(みなかわ さら)が初めてここを訪れた。
咲楽は保育士になって3年目を迎えていた。今年は4歳児の担任を持っている。仕事にも一通り慣れ、任せてもらう事も多く、後輩もできて、忙しない毎日を送っていた。
幼い頃から年下の子のお世話をするのが好きだったり、自分が保育園に通っていた時の担任の先生に憧れていたりという理由から、自然と選んだ保育士の道だったが、仕事量の多さや責任感に押し潰され、疲労から体調も崩しがちだった。
"辞めたい"…ふとそう思う事もあったが、担任を持っている以上、子どもたちの学年が変わる年度末の3月31日までは、責任を持って担任を務めるのが当たり前、年度途中の退職は認めてもらえなかった。つまり咲楽は、直近の3月31日を逃してしまった為、最低でもあと1年間はあおぞら保育園で仕事を続けなければならない。逃げられない、そう思うと余計に息が詰まった。
ある日の夕方、帰りの会をスムーズに始めるために、子どもたちをピアノの近くに集めようと、声を張った。
「はーい!それでは、つき組さーん!お帰りの会始めるよー、集まってー!」
咲楽の声は、子どもたちの話し声やおもちゃで遊ぶ音でかき消されてしまった。咲楽は何度か声をかける。だが、その度に自分の声が心臓に跳ね返ってきて、少し動機がした。子どもたちの笑い声や泣き声が脳に直接響いてズキズキと脈を打ち、耳鳴りもする。
あれ…何かおかしい…。
視界がぼやけて思わずしゃがみこんだ。つき組の保育室には、今は咲楽一人しか保育士はいない。助けを呼ぶことができず、しばらくうずくまったまま、呼吸が落ち着くのを待った。すると一人の女の子が気付いて駆け寄ってきた。
「さら先生、どうしたの?お腹痛いの?」
「あ、ゆなちゃん…ううん、大丈夫だよ。…ごめん、お帰りの会、長い針が2になったら始めるね。」
「わかった。」
お帰りの会は、10分遅らせてから始めた。
その後も、仕事中にこの日と同じ症状に襲われることが時々あった。事務作業をしている時ならまだしも、大変なのは子どもたちと一緒にいる時だ。子どもたちに心配をかけないよう、いつも少しうずくまって耐え、症状が落ち着くのを待った。
疲れやストレスから体調に変化が見られるのだとは思っていたが、何か大きな病気だったらと不安になり、休みの日に病院を受診した。
結果は、特に異常なし。症状を話すうちに、「心因性の病気かもしれない」と精神科を勧められた。
翌週、紹介してもらった精神科を受診すると、適応障害という診断結果だった。あまり聞き馴染みはなかったが、ストレスが原因の心の病気みたいだった。今の仕事に耐えられず、"辞めたい"を伝える前に体がSOSを出していたのだ。
もし入院や手術が必要な体の病気なら、すぐにでも園長先生に伝えて辞めることができただろう。しかし、心の病気を理由に辞めるのは、余計に気まずかった。"ここの環境がストレスです"と伝えるようなものだから、園長先生にそんな事を言えるわけがない。
結局、また耐えるしかなかった。
明日は日曜日で園はお休み。週明けの月曜日に向けての仕事を片付けてから帰ろうと、一人園に残って残業をした。最終の子どもが帰ってから1時間半、ようやく自分の仕事も片付き、20時過ぎに園を出た。
園から自宅までは歩いて15分。気分転換にいつもと違う道から帰ろうと、雑貨屋さんや本屋さんにも立ち寄りながら帰っている途中、ふと街の外れの小道に出た。
「ん、こんな所あったっけ…?」
せっかくなので森を抜けてみることにした。すると、遠くにほんのり灯りが見え、美味しそうな香りが漂ってきた。辿り着いた先には、小さな喫茶店が。
「珈琲喫茶kaoru…何か素敵。」
咲楽は香りにつられて、店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ、ようこそ。」
いつものように薫がふんわりと迎える。
「一人です。」
「お好きな席へ…お客様、もしかしてあまり体調良くないですか?」
「え…。」
「顔色があまり…お疲れのようですね。良ければあちらのカウンター席へどうぞ。」
「ありがとうございます。」
なぜここ最近、体調が悪い事がこの人にわかったのだろう。不思議に思いながらも、咲楽は案内されたカウンター席に座った。
「素敵なお店だったので思わず立ち寄ってしまったんですけど、あまり食欲は無くて…すみません(笑)」
「ありがとうございます。やはりお疲れなのですね。コーヒーはお好きですか?」
「はい。」
「では、お客様に合わせてお出ししているブレンドコーヒーをお作りしますね。」
「ありがとうございます!」
一息ついて、店内を見渡す咲楽。ゆったりと落ち着く空間に、思わず咲楽の方から話しかけていた。
「私が体調が悪い事、顔を見てすぐにわかるなんてすごいですね。同じ職場の人には気付いてもらえないので上手く隠せていると思ったんですけど、きっと相当ひどい顔してるんですね私(笑)」
コーヒーを淹れながら、薫が会話を続けた。
「いえいえ、そんな事はありません。だけど、初対面の方でも、表情や声のトーンで、何となくわかるんです。元気そうだなとか、疲れていそうだなとか。」
「そうなんですね…すごいなぁ。」
「僕、職業も当ててみてもいいですか?」
「はい!ぜひ(笑)」
「保育士さんですよね、おカバンからエプロンが…。」
「あっ(笑)」
咲楽は、カバンから少しはみ出たエプロンを畳んで入れ直した。
「素敵ですね、保育士さん。」
「はい…良い仕事、だと思います。」
「何かあったんですか?」
「うーーん…(笑)」
「…その前に、どうぞ。」
薫は、ピンクの花柄のカップを選び、コーヒーを注いで咲楽の前に置いた。
「ありがとうございます。いただきます。」
フルーツのように甘く爽やかな香りが咲楽を包んだ。
「美味しい…飲みやすい!」
「お疲れの時は、スッキリと爽やかに飲めるアメリカンコーヒーがおすすめなんです。」
心が安らぎ、本音が溢れ出る。
「体調の事もあって…辞めたいんですよね、正直。すぐに治るものでもなさそうで。適応障害ってわかりますか?」
「…はい、何となく。」
「精神的な病気なので、上司にも言いにくくって。保育の仕事は好きなんですけど、何かもう…疲れてしまって。」
「すぐに辞めるのは難しいのですか?」
「年度途中で辞めることはできないんです。」
「病気だったとしても…?」
「体の病気ならまだしも、精神的なものなので…メンタルが弱いだけとか、根気がないとか思われてしまいそうで。」
「そうなんですね…。」
薫はおもむろに立ち上がり、ドアへと向かった。店の看板を、"OPEN"から"CLOSE"に裏返すと、再び咲楽の元へ。
「僕の立場で、勝手な事は言えないですが…。」
「はい…。」
「ご自身のお身体より大事なものはないと思います。仕事も子どもたちも、もちろん…えっと、お名前…。」
「あ、皆川咲楽です。」
「咲楽さんですね。仕事も子どもたちも、咲楽さんにとって大事だと思います。大切だと思います。でも、一番大切なのは咲楽さんご自身です。」
咲楽の目に涙が浮かんだ。
「僕も前の職場で、仕事のストレスが原因で体調を崩していた時期がありました。自分の身体よりも仕事を優先していたら、身体を壊して結局周りに迷惑をかけてしまって…。」
「そうなんですね…。」
「経験者から言わせていただきます(笑)壊れてしまう前に、取り返しのつかない事になってしまう前に、自分でちゃんとブレーキをかけてください。ご自身を、もっと大切にしてあげてください。」
「ありがとうございます。…何か、目が覚めました。簡単な事なのに、わからなくなっていました。もっと自分の事を大切にします。」
カップに少し残ったコーヒーと飲み干して、笑顔で続けた。
「お話聞いてくださり、ありがとうございました。」
後日、薫が店のポストを開けると、郵便物と一緒に小さなメッセージカードが入っていた。
「咲楽さんからだ…!」
そこに書かれていたのは、こんな内容だった。
"先日は美味しいコーヒーと、温かいお言葉、ありがとうございました。その後園長先生に病気の事をお話して、私が無理なく働けるように勤務時間や仕事量を調整していただく事になりました。もう少し保育士を続けてみようと思います。もちろん、無理のない範囲で。またコーヒー飲みに行きます✽"
薫はそのメッセージカードを、レジ横の写真立ての側に飾った。お客様からの、「ありがとう」の言葉は、薫にとって何よりも励みになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます