悩める時は、コーヒーを
のん
第1話 "助けて"と言えるようになれたら
「あちっ!」
やかんのお湯を少しこぼしてあたふたとしているのは、この喫茶店の主、星名薫(ほしな かおる)。カップの側面についてしまったコーヒーをそっと拭き取り、目の前のカウンターに座る少年に差し出す。
「お待たせ致しました。…コーヒー飲んだことある?」
「…あんまり。」
「だよね(笑)でもこれは少し甘めにしたから、飲みやすいと思うよ。どうぞ。」
「いただきます。」
ふーふーと息を吹きかけて冷ましながら、薫の淹れたコーヒーを一口飲んでふんわり笑顔になる少年、香山尚(かやま なお)。
「美味しいです…!」
「そっか、良かった。…そしたら、ゆっくりでいいから話せる?」
これは、ある街の外れにある小さな喫茶店「珈琲喫茶kaoru」の物語。薫は一人でこの喫茶店を営んでおり、癖っ毛がふわりとカールする栗色の髪の毛に、黒目がちな仔犬のように丸い瞳、淡いブラウンのシャツに、若葉色のエプロンを腰に巻いて、ここに迷い込こんで来るお客様を「ようこそ」と迎える。
大通りを外れた小道に続く森の先に、こじんまりと佇むこの店を知る人はかなり少ない。ただ歩いているだけでは、この店の存在に気付かないからだ。
森の入り口には、春には花道が、秋にはどんぐりが並んでおり、それらを辿るとこの店が見えてくる。都会の喧騒から離れ、ふらっと寄り道をしたり、俯いて歩いていたりすると、この小道に気付くことができる。
尚もそうだった。
小森中学校2年4組の教室。6時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、ホームルームに向けて帰る支度をする者や、部活に行く準備をする者もいる中、尚は一人トイレに駆け込んだ。あいつらに声をかけられたら、またあの地獄のような時間が襲ってくる。トイレの個室に隠れて身を潜め、クラスメイトが教室から居なくなるのをじっと待った。
20分ほど経ち、静まり返った廊下に、女子生徒数人の話し声だけが聞こえていた。今日はもう、あいつらは帰ってしまっただろう。警戒しながらも、いつも尚を囲っていじめを繰り返す男子生徒のグループがいないことを確認し、早足で昇降口に向かった。上履きから運動靴に履き替え、急いで帰ろうとすると、後ろから尚を引き止める声が。
「何だよ、まだ居たんじゃん(笑)」
「ほら行くぞー。」
尚は両腕を捕まれ、学校から少し離れたいつもの小道に連れ出された。
「は?これだけ?…1000円(笑)」
「1000円じゃ何もできねーじゃん、なあ!」
「確か次は1万の約束じゃなかったっけ?」
「そうでしたね?!では罰ゲームを…」
尚はいつもこの様に、いじめグループから現金を強請られ、約束の額を持って来られなかった時は酷い暴行を受けていた。500円、1000円から始まった当初は用意できたものの、それ以降は限界があった。親に「欲しい物があるからお金を貸してほしい」と頼んだ事もあったが、毎日となるとさすがに頼めない。家族は皆、尚がいじめられていることには気付いていないのだ。
「よいしょー!」
腹を蹴られて、小道脇の茂みに突き飛ばされた。尚の体はもう痣だらけだった。
「明日こそ1万なー。」
「帰ろーぜ。」
いじめグループが立ち去り、一人取り残された尚。立ち上がる気力はもう残っていなかった。
日が沈み始め、辺りが暗くなってきたところでようやく立ち上がる尚。早く家に戻らないと、親を心配させてしまう。投げ捨てられたカバンを拾うと、視線の先にふと小さな花道が続いているのを見つけた。そう言えば、この先の道がどうなっているのかは知らない。尚はフラフラと花道を辿ってみることにした。
森を抜けた先に、ぽつんと佇む喫茶店。
「こんな所に…知らなかった。」
だが、洒落た喫茶店など一人で入ったことはない。お腹も空いてきたし、少し休憩したい気持ちもあったが、ドアを開ける勇気がなく、引き返そうとしたその時。
「…あっ。ちょうど今からオープンなのでどうぞ?」
タイミング良く店側からドアが空き、男性の店員が笑顔で迎え入れてくれた。
「あっ、いや、でも…。」
「その傷、どうしたの。」
尚が先程、茂みに突き飛ばされた時に腕中にできた傷を見て、薫は何か事情があるのではと引き止めた。
「これは…その…。」
「夕ご飯もあるだろうし、長居しなくて大丈夫だから、ちょっと寄っていかない?」
尚は、薫の言葉に身を委ね、店内に入った。
「ようこそ。」
尚の淹れてくれたコーヒーは、とても飲みやすかった。血が滲む手で、オレンジ色のコーヒーカップを包み、一息ついていると、尚がそっと語りかけた。
「そしたら、ゆっくりでいいから話せる?…ほら、そんなに傷だらけなお客様…放っておけないから。」
尚は、いじめにあっていることを素直に薫に打ち明けた。先程会ったばかりの店主の前で、自分の、しかも家族にも知られたくなかった事をこんなにスラスラ話せるなんて、尚自身も驚いていた。だが、自分の事をまだよく知らない人だからこそ打ち明けられたのだろう。
話し終えると、薫もゆっくりと口を開いた。
「お父さんお母さんや、友達には、この事相談してないの?」
「相談…できません。心配…かけちゃうから…。友達は俺の所を離れていきました。僕と一緒にいたら、その友達にまでいじめが始まる、きっと。」
「そっか。」
薫はおもむろに立ち上がり、ドアへと向かった。店の看板を、"OPEN"から"CLOSE"に裏返すと、再び尚の元へ。他のお客様が入って来ないよう、せっかく打ち明けてくれた尚に応えられるよう。
「いじめられている子は、大抵誰にも相談できずに一人で抱え込んでいるものなんだよ。君と同じで。それはもちろん、心配かけたくないから。恥ずかしくて、情けなくて、惨めな自分を曝け出すのが怖いから。でもだからって、一人で解決できるものでもないよね。」
「うん…。」
「だけどさ、いじめって終わらないんだよ、何かきっかけがないと永遠に続く。しかもどんどんエスカレートして。」
「そんな…。」
「だから、終わらせなきゃいけない。自分で何とかしなきゃいけない。家族でも、先生でも誰でもいいから、周りの大人に、"助けて"って言えたら…。」
「…。」
黙り込む尚を見て、薫は尚のオレンジ色のコーヒーカップに温かいコーヒーを注ぎ直しながら続けた。
「いじめられている時は気付かないかもしれないけど、大人になってから思い返すと、いじめてる奴らの方が、よっぽど恥ずかしくて、情けなくて、惨めで弱くて子どもっぽいんだよね(笑)なのに、何でこっちが辛い思いしなきゃいけないんだろうね。」
「…何でそんなに僕の気持ちがわかるんですか?」
尚の問いかけに、薫は少し言葉を詰まらせてから、また口を開いた。
「僕も実は、子どもの頃にいじめられた事があったから。思い出したくないけどね(笑)」
「え…。」
「学校なんて、行かなくてもいいんだよ。しかもまだ中学生なんだから。行かなくても家で勉強はできるし、僕はいじめに耐えられなくなって学校に行くのをやめたんだ。」
「そしたら?」
「そしたらいじめもなくなった。卒業しちゃえば、もう顔を合わせることもないしね。」
「薫…さんは、助けてって誰かに言えましたか?」
「…言えなかった。言いたくても、やっぱり簡単には言えない。そしたら向こうから僕がいじめられている事に気付いてくれて、だけどもっと早く、自分から言えていたらなって思うよ、今でも。」
尚は、カップの持ち手をぎゅっと握りしめた。
「僕、明日…学校行かなくてもいいかな?」
「いいと思うよ。」
「タイミング見て、お母さんに相談してみます。」
「そっか。君の…あ、名前聞いてなかったね(笑)」
「尚です。」
「尚くんのお母さんは、話したらわかってくれそう?」
「うーん、どうだろう…(笑)でも、何かもう大丈夫な気がする。だって恥ずかしいのは僕じゃなくて、いじめてくるあいつらなんだから。」
「そうだね。」
長居するつもりはなかったが、すっかり日は落ち、空には月が登っていた。薫は尚を店の外まで見送った。
「暗いから気をつけて帰ってね。」
「はい。コーヒーごちそうさまでした。話も聞いてくれてありがとうございました。」
「いえいえ、またいつでもおいでね。」
家に帰る道中は少し肌寒かったが、コーヒーと薫の言葉の温かさが、尚の胸の中にずっと残っていた。
ここはごく普通の喫茶店。だけど、店主の薫が、悩めるお客様をオリジナルのブレンドコーヒーと悩み相談で癒やす、優しくて温かい店なのだ。
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