私は家から少し離れた川の近くにいた。

 このあたりは流れも穏やかであるため、非常にのどかな風景が広がっている。向こう岸には、鬱蒼とした森があり、拒絶の色が強く感じられる。

 これも、会話なのかもしれない。

 自然は不用意に人間に干渉しないし、人間も無意味に自然に踏み込まない。今は、人間が自然を支配しているが、きっとそんな時間は長く続かないはずだ。自然は人間さえ内包している。人間の逸脱を許そうとしない。いつか、人間が息切れを起こした瞬間に少しずつ、飲み込んでいくことだろう。美しい自然には、いつだって人間が不要なのだ。自然の力に支配された時、人間はその一部となって、人間という分類すら捨ててしまうだろう。自然は包容力こそあるが、決して寛容ではないのだ。

 風が吹き、水面が鱗のように震える。光の反射具合が変化し、誰かの顔のように見える。

 監視されているというよりも、見守られているというような優しさ。

 これも人間特有の驕りだろうか。それとも、単純に私が鈍いだけなのか。

 私はこんなにも人間と自然について考え、そして、感じている。

 けれど、社会というものを分かっていない。

 男は、それが私の首を締めに来ると危惧している。杞憂であると言い切れない所が、私の最も弱い所だ。しかし、長所にもなる。まだ、知らないことが多いなら、これから知っていけばいい。ただ前向きなわけではない。ただの事実である。

「そこで、何をされているんですか」

 後ろを振り向いた。

 女性だった。鋭い目をしていたが、笑顔だった。

 それ以外の情報は、取得できても信頼性が低い。

「あぁ、川を見ていた」

「釣りをしているわけではないんですね」

「あぁ、眺めていただけだ」

「何故でしょうか。お魚もいっぱいいそうな気がします」

「いるだけだ」

「お魚が嫌いなのですか」

「昨日の夕食は魚だった。必要な時だけ釣りあげて、食べる。それだけだ」

「遊びで釣るようなことはしないんですか」

「しない」

「趣味ではない、ということですね」

「難しいところだ。今のところ、生きるのが趣味だ。その結果、食べなければいけないし、歩かなければいけないし、眠らなければならない。ただやっていないだけなのに、説明を付け足すことは難しい。私以外の命と、私の軽はずみな思考の問題だ」

「すみません。世間話のつもりでした」

「世間話のつもりで話している」

 女性は私の近くまで来ると隣に座った。

 私も一人で森に棲んでおいてなんだが、女性のことを変人だと思った。冷静に考えて、ホームレス同然の男である私は、臭そうではないか。一度話したくらいで、そこまで距離を詰められるものだろうか。

 男の言う通り、怪しむべきなのか。

「ナキメソウ事件の捜査をしているんです」

「それは、前に聞いた」

「情報とかないですかね」

「ないな。昨日、話したことがすべてだ」

「そうですよね。町の人が全く協力的じゃなくて、凄く困っているんです」

「本当に町の人と仲良くしたいなら、町の人間になるしかない」

「何かお祭りに参加すればいいということですか」

「住むしかない」

「無茶です」

「そう思って、アドバイスをした。あぁ、そうだ、私の家によく来る男の話をしただろう。連絡は来たか」

「いえ、まだです」

「そうか」

 男には電話番号を伝えてある。何かあるとしたら男の方からだ。

 私は色々と下手糞なのだ。これ以上、男に迷惑をかけたくない。

「あの、一つ聞きたいことがあるんです」

「なんだ」

「何故、あの家に暮らしているんですか」

「気になるのか」

「まぁ、そうですね。あなたも一応、容疑者ですから」

 私は鼻で笑ってしまった。

「正直だな」

「まぁ、ナキメソウが捕まっていない以上、ありとあらゆる人が容疑者です。今のところ、エリアを絞っていますけど、広範囲に移動しながら爆弾を送っていたら、何の意味もありません」

「私は容疑者として、どのレベルになるんだ」

「オチです」

「オチとは」

「資料に名前が載りません。枠の外でもなく、下に落ちてるってことです。一応、このあたりで話を聞けたのはあなただけなので、上司に報告をしました」

「どうだった」

「笑われました。爆弾を作るだけの財力であるとか、技術、環境、そういうものを総合して考えてから、情報を持って来いと」

「なるほど」

 私が犯人だが、その上司の言っていることは一理ある。

「ナキメソウの正体については、ありとあらゆるところから様々な情報が上がってくるんです。だから、本部はいつもてんやわんやで」

「まぁ、信用度の低い情報や、確率的に低いであろう容疑者の情報に目を通す時間はないな」

「はい、そうなんです」

「というか、言っていいのか」

「何がですか」

「私にだ。君は私に向かって色々と重要なことを喋っている気がする」

「別に大丈夫ですよ。今のところ、ほぼあなたとしか話していませんから。本部が忙しいなんて、想像すれば分かることですし、私が町の人に受け入れてもらえないことをあなたに相談しないと、そもそも捜査も進みません」

 警察なんてそんなものだ。別にロボットが働いているわけでもない。呑気な人間もいれば、几帳面な人間もいるし、いい加減な人間もいれば、丁寧な人間もいる。涙もろい人間も、他人とすぐに仲良くなれる人間もいる。足並みを揃えるから、一斉に転ぶのである。これは何かのアクシデントへの対策として自然発生した組織内のストッパーと言える。

 まぁ、どちらにせよ、私は信頼されているようだ。もちろん、引き続き注意を払う必要はあるだろう。

「私が、ここで捜査をしてるってことは、たぶん、このあたりにナキメソウはいないんでしょうね」

「随分と自分を低く見積もるんだな」

「あなたはどう思いますか」

「自己評価が正確である稀有な例だと思う」

「あぁ、やっぱりそうですよね。分かります」

「先ほどの続きを話してもいいか」

「えぇと、森の中に一人で住んでいる理由ですよね」

「記憶にないんだ」

「忘れてしまったということですか」

「思い出そうとしても思い出せないんだ。記憶の欠片もない」

「記憶喪失ですか」

「近いかもしれない。ただ、どこで生まれて、どこで育ったか、誕生日や、自分の年齢、本名は分かっている。この森に来たきっかけが分からないんだ。たぶん、かなり自分にとってショックなことがあったんだと思う。そのせいで逃げて、ここに来たんだろう」

「不安じゃないんですか」

「自分が忘れているということに気が付いた時は、不安だった。でも、途中で慣れた。あくまで部分的な消失であって、すべてがなくなったわけではない。これから築き上げていけばいいだけだ。おそらく、私は昔から、積み上げたものを捨てることに躊躇がなかったんだと思う」

「強い人ですね」

「強いというのは、自分の弱さに気付いていないだけだ。昨日の夜も、私にところによく来る男に注意されたんだ。自分を過大評価するな、とね」

「昨晩も会っていたんですね」

 しまった。

 男の話題を出してしまった。

 私は、なんでこうも迂闊なんだ。

 そもそも、警察とこんなに仲良く話しているということ自体、避けなければならない事態だ。しかし、今から拒絶をするのも不自然だ。

「あの、もしよかったら、その方にもお話を伺いたいので、家に来た時点で電話をしてくれませんか。私、モウドホテルに何日間か泊まることになったので、連絡が来たらすぐに飛んできますので」

「分かった。ただ、深夜の可能性もあるが」

「夜とか平気なんで大丈夫です。私、こう見えても夜行性なんです」

 何がどう見えたら昼行性なのかは聞かなかった。

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