ドラゴンの大西さん

螺子ノワ

第1話 大西さんはドラゴン

 渡された書類を溜息を殺して受け取ると、渡した上司は半分笑うようにして言った。


「残業はなるべくしないでね、大西さん」


 だったら終業寸前に持ってこないでよ、こんな書類。

 面倒な計算しないといけないやつじゃん。

 ──とは言えないのが社会人。


「わかりました」


 答えながら“わたしは社会人”と心の中で唱えて、頭の中のノートにいつかこの上司を物理的に丸焼きにしてやると書いておく。この上司はいつも誰かに残業必至の仕事を押し付けるから、コネ入社のルカより嫌われているのは自覚したほうがいいと思う。

 ドラゴンで良かったことは寿命が無駄に長いことだ。

 こいつが死んだあと、思う存分燃やそうと考えるだけで大抵のことの溜飲が下がる。人間いつか死ぬんだから、死んだときに誰が焼いたっていいだろう。今の日本は大半が火葬だ。ドラゴンの炎で燃やせば骨も残らないからかえって衛生的ではないか。

 今日日、自分ドラゴンですなんて自己紹介はしないけれども。

 幽霊も吸血鬼も娯楽になるこの世の中のことだ。きっと誰も信じない。

 忌まわしい書類を片手に席へ戻ると、となりの席の小西さんがちらっと目配せして「よかったらどうぞ」とチョコレートをひとつくれた。小さいが海外製の美味しいやつだ。


「ありがとうございます」


 すこし笑顔を作って返せば、小西さんはきれいに微笑んで仕事に戻った。こなれたお化粧をした横顔はいかにも仕事ができる美女で、見た目のとおり小西さんは仕事ができる美女だ。事務という限りなく地味な仕事も毎日きちんと真面目にこなす。噂では年下のイケメン彼氏がいるらしい。アラサーの彼女はたびたびお局さまとやっかみを受けているが、仕事ができて美人の彼女がうらやましいんだろう。

 対してこちら、大西ルカは嗤われることはあってもやっかみを向けられることはない。

 丸顔気味の平均的な中肉中背、知り合いのJKに丸い目はリスっぽいと言われたぐらいで特徴らしい特徴もない。お決まりのオフィスカジュアルは動きやすさと価格の安さ重視のセットアップでおしゃれさの欠片もないし、化粧品はドラッグストアでしか買ったことがない。髪の長さですら扱いやすいというだけで肩より少し長いぐらい。どこをどうとっても平凡という感想しか出てこない。

 そんな大西ルカの社内における評判はたったひとつだ。

 仕事のできる小西さん、仕事の出来ない大西さん。

 セットで並べられることすら恥ずかしいから、そろそろこの売り文句は消えて欲しいと思っている。


 ドラゴンが人間社会に溶け込むようにして暮らし始めたのは、人間が集落を作って多少なりとも文化的な生活を始めてからのことで、その歴史はわりと長い。

 とかくドラゴンというものは寿命が長いので、森でひっそり暮らすにしても外界の環境が先に変わってしまうのだ。巨体のドラゴンも多いので人間とは特に折り合いが悪い。簡単に言えばいわゆる怪獣だから。そこで人間たちがいよいよ世界で幅を利かせ始めた頃、ドラゴンは異世界へ移住する者とそのまま生まれた世界で暮らす者とで分かれたのだ。

 ルカはこの生まれた世界で暮らすことを決めた一族の、新生世代にあたる。

 新生世代とは人間が集落を作り始めてから生まれたドラゴンのことだ。新生世代は人間と共に育ってきたからか、人間に変化することに抵抗はないし、とくべつ見下す気持ちもない。森羅万象、ドラゴンも人間も同じ惑星に住む生き物なのだから、食べて寝て死ぬ弱肉強食の一部であることに違いない。いくらドラゴンが生物ピラミッドの頂点だからといって、ルカは人間を食べたことはないけれど。


(でも、ひとりぐらい丸焼きにしてもバレないのでは)


 ドラゴンの炎は格別だ。一戸建てぐらいなら確実に丸焼きにできる。人間など火加減次第で骨どころか遺品も残らない。

 ──残業で疲れた頭で考えることなどロクでもないと相場が決まっている。

 渡された書類を眺めながらようやく面倒な計算を終えると、頭の隅から凶暴な空気が抜けていく気がした。

 けっしてよろしくない考えをなだめるようにして、小西さんからもらったチョコレートを食べる。人間の悪いところなど数え出したらキリはないが、こうやってたまに施しをしてくれるから憎めない。兄に話したら鼻で笑われるほどチョロいのはわかっている。


 やっと完成した書類をパソコンに保存して、警備員のおじさんに挨拶して会社を出ると通りにひと気はなかった。

 駅までのこの道は、女性社員には評判が悪い。オフィスビルばかりでコンビニが遠く、住宅も離れている。慰み程度に公園がビルのあいだにあることも嫌われていた。余計に人の気配が遠くなるからだ。

 街灯を頼りに近道をしようと路地に入っても、夜の住宅地は静かで人通りはない。

 だから、うちの会社では女性社員にはなるべく残業をさせないようにと言われているのに、上司はお構いなしに仕事を押しつけるから女性社員に嫌われている。どうやら早く帰って若い奥さんの機嫌を取りたいらしい。早晩離婚してしまえとやっかみも相まって男性社員にも嫌われているから、今度の人事は震えて待つといい。


(その前にやっぱり焼いておくべきか)


 どうせ上司は異動にならないし、上司がちょっと不幸になったぐらいでルカの給料は上がらない。

 物騒な考えになるのはおなかが空いているからだろう。あいにく人間を焼いてもルカの夕食にはならない。ことなかれ主義は立派な処世術だ。今晩何食べよう、とコンビニ弁当の棚を思い浮かべたところで、空から大きな羽音が聞こえた。

 そう、羽音だ。

 ばさり、ばさり、とシーツでも羽ばたかせるような大きな羽音。

 思わず見上げると、見覚えのある巨大な影が悠然と空を横切っていった。

 ドラゴンだ。

 ルカ以外のドラゴンが都会の空を飛んでいる。


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