第十話『異人』 破

 まゆづきは胸の内に三つの背徳を秘め、それをひどけんしている。

 彼女がそのへんりんに初めて気が付いたのは二十歳はたちの頃、大学に合格して初めての夏、家族で久々に夏祭りへ出掛けた時の事だった。

 それまで浮ついた話の一つも無かった彼女は、初めて燃える様な情欲を感じた。


 母と義父が自分達の世界でロマンスの思い出に浸っているのをに、彼女は当時九歳だった腹違いの弟・つばさと共に花火を見上げていた。

 その時ふと、光に照らされて色合いを変える弟の横顔が、どういう訳かとてもあでやかに見えてしまった。


 嗚呼ああ、何ていとおしいのだろう、何故なぜ狂おしいのだろう。

 そんな事を考え、彼女は我を忘れた。

 そして気が付くと、彼女は年端も行かぬ弟のほおに唇を近付けていた。


 寸での所でおもとどまり未遂に終わったものの、突然の事に弟は明らかに戸惑っていたし、それは彼女もまた同じだった。

 まゆづき近親愛コンサングィナモリー小児性愛ペドフィリアを同時に抱いてしまったのだと、この時はそう思っていた。


 弟は、そのわずか一週間後に死んだ。

 交通事故だった。


 突然のほうに両親も彼女も皆悲しみに包まれるも、どうにか通夜を執り行った。

 弔問客を帰し、棺に眠る弟と家族だけでさいの一時を過ごす最中、その瞬間は訪れてしまった。


 当初、彼女は確かにたとえようも無い悲しみに支配されていた。

 棺の小窓からのぞく弟の顔は、死化粧を施され現実感の無い白亜の色をまとっていた。

 ためいき交じりに見詰める彼女の思考までもが、ぼうぜんとした空白に塗りつぶされていくようだった。


 嗚呼、愛おしい弟よ、狂おしいつばさよ。

 花火の下で見た色めく横顔よりも、悲しみの白が何と幻想的で美しいことか。


 姉の顔が弟の顔に近付く。

 唇と唇が触れそうになる。

 気が付くと、そこは通夜を終えた愛別離苦の空間ではなくなっていた。

 もっとおぞましい色欲が彼女を支配していた。


 我に返った彼女は己の行いにがくぜんとしていた。

 胸に秘めた思いに気が付いてしまった彼女は、とても弟との別れを悲しむどころではなくなってしまったのだ。


 あろうことか彼女は「九歳の」「弟の」「死体に」欲情していた。

 まゆづきの遅い初恋は、くもおぞましい狂気だった。


 近親愛者コンサングィナモリー小児性愛者ペドフィリアにして、更に死体性愛者ネクロフィリアという業深き女。


 何処どこまでも深い、奈落の如き絶望に突き落とされた彼女は、己をこの世に生まれてくるべきでなかった真正の邪悪と強く強く信じ込んでしまった。


 そんな観念から彼女を一時的に解放し、闇から救ったのは五年後の出会い――『あか』を名乗るバンドマンだった。




⦿⦿⦿




 西の空があかねいろに染まるたそがれどきわたる達はこの日もどうにか乗り切った。

 だが、わたりの命令で切り立つ崖の上に立たされているのは三人だけだった。


「何故お前達だけ残されたか分かるか?」


 わたりは三人にドスの利いた声ですごんだ。

 さきもりわたるあぶしんまゆづきの三人はいまだにしんの第三段階「じゅつしきしん」に覚醒していない。

 成果の悪さにいらちを募らせたわたりは、この日三人だけに居残りを命じたのだ。

 他の五人はおうぎことはたに連れられ先にこうてんかんへ戻された。


ぼく達は……未だじゅつしきしんとくしていない」

「その通りだ、能無し共!」


 わたりわたるの腹を殴り、膝を付かせた。

 訓練の初日からずっと、わたるわたりから目の敵にされていた。

 何か気に入らない事、言い掛かりの余地があると、この様に意味も無く暴行されるのだ。


「ぐ、はっ……!」

おれもじっくりのんびりやっている訳にはいかんのだ。今日が終われば、しゅりょうДデーの訪問日まで後四日しか無い。それまでに、全員のていさいを整えねばならんからな」


 わたりの拳が、今度はしんの顔面を殴打した。

 けん慣れしたはずの彼の体を一発で崩し、尻餅をかせてしまうあたり、何だかんだでこの男の実力だけは本物だ。


メエ……!」


 しんわたりにらみ上げる。

 普段はおちゃらけた彼だが、には荒れていた過去をほう彿ふつとさせる獣性が宿っている。

 だが、わたりはそんなしんを鼻で笑った。


「そんな眼をしたところで、今のお前は落ちこぼれに過ぎん。悔しかったら一日も早く他のやつらに追い付くことだな」


 屈辱感をあおって奮起させる腹積もりだろうが、的外れも良いところである。

 そもそも、わたる達にはおおかみきばの革命を成すために尽力する意欲などもとより皆無なのだ。

 おおかみきばのやり方は根本から間違っているが、彼らはそれに気付こうともしない。


「自明な筈だ、お前達がひたきに努力すべき事、戦うべき相手は。こうこくという巨悪の脅威、お前達も充分に承知の筈だろう。めいひのもともまた、邪悪な帝国主義者に脅かされている。ならばお前達は元から我々と立場を同じくする味方同士の筈だ。多少不本意な形で連れて来られ、何かを犠牲にされたから、それがどうした? 少しでも良心と思慮、理性があれば我々と手を取り合うべきだとわかる筈なのだ。むしろ、戦う機会と力を与えられた事に感謝すべきだろう」


 身勝手極まりない論理、これこそがそうせんたいおおかみきばという組織の思考回路だ。

 それは自身を正義と確信する傲慢というよりは、多少のは大目に見てもらえるという甘えである。

 当然、こんなものがわたる達に通用する訳が無い。

 わたりは狂気に満ちた眼をまゆづきに向ける。


「なあ、お前もそう思うだろう、まゆづき?」

「ヒッ……!」


 おりには臆していなかったまゆづきが、わたりにはおびえている。

 異常な論理で暴力による支配をく男は、まゆづきから見ても異常者なのだ。


「お前は特に、訓練に身が入っていない。何故なんだろうな? このおれが直々に連れて来てやったというのに」


 まゆづきは拉致された際に恋人をうしなっている。

 すなわち、彼女はわたりに大切な人を奪われたのだ。

 当然、協力は望めないだろう。

 だが、今の彼女はその恨みよりも恐怖が勝っている。


「我々の使命は地球より重い! 怠惰は最大の罪だ! それはこうこくに対する消極的加担だからだ! 日本人は巨悪にくみする悪癖があるいぬの民族だと首領がよくおっしゃっている。おおかみになれる機会、みすみす逃すものではないぞ」


 わたりまゆづきの髪をわしづかみにした。


「痛い! 痛い!!」

「だが、おれに言わせれば貴様らなど肉食動物すらがましい。特に、無能な上に怠惰なくずにはな。まゆづき、お前はじゅつしきしんを身に着けるまで豚になれ! これより人語をしゃべる事を禁ずる! 豚語でブヒブヒくんだよ!!」


 あまりの暴言に、わたるしんは同時にキレて立ち上がった。


手前テメエ、この野郎!!」

まゆづきさんを放しやがれ!!」


 立ち直るのが早かったしんが先に、わたるは後から続いてわたりに向かっていく。


「愚か者共めが」


 しんの右拳がわたりの顔面を捉えた。

 だが、わたりは頬に拳を突き刺したまま不気味に笑ってしんを見据える。


「三人の中でお前はまだマシな方だな。なかなか良い拳じゃあないか」


 わたるが追い打ちを掛けようとするも、わたりまゆづきの体をわたるにぶつけてきた。

 まゆづきを支え切れず、わたるは彼女をかばう形で尻餅を搗いた。


ざまさらしているそこの二人は駄目だがな」

「ぐっ……!」


 わたるは苦痛に思わず声を漏らしたが、まゆづきが無かった事にひとず少しだけあんした。


 一方で、わたりにはしんが一人で追い打ちの拳を振るっている。

 だが、両腕を使えるわたりしんの攻撃を軽々なしていた。


「じゃあ、親を殴った罰と成長した子へのご褒美を兼ねて、おれが拳打の手本を見せてやるとするかァ!!」


 わたりは目にもとどまらぬ速さでしんに拳の暴風雨を浴びせた。

 一・二発はしんもどうにかかわしたものの、すぐに対応し切れなくなりボコボコに殴られて膝を付いてしまう。

 止めとばかりに、わたりの蹴りがしんの顎を打ち上げ、意識を遠い所へ消し飛ばしてしまった。


「あ……あぁ……」


 わたりすさまじい暴力に、まゆづきはガクガクと震え始めた。

 その背中に触れるわたるにも、彼女の恐怖が伝わってくる。


「さぁて、最悪の問題児二人をどうしたものか、この場で決めてしまうとするかな……」


 わたりぎゃく的にしためずりし、わたるまゆづきを見下ろす。

 しかし、この状況は悪い事ばかりではない。

 何故なら、わたるの脱出計画にとって、わたりが彼を見限るのは必要条件だからだ。


わたくしの計画では、貴方あなた達の誰かをわたりに見限らせる。それを見越して、その方を雑用係としてわたくしの下へ配置換えするように言い含めておく。そうすれば、わたくしわたりの指示でその方にどうしんたいの操縦を教えられる、という訳です。十中八九、選ばれるとすればさきもり様でしょう。』

『しかし、そうく行きますかね?』

『大丈夫です。……わたくしにお任せください。』


 わたるの計画が上手く運ぶか、全てはわたりがどう判断するかに懸かっている。

 わたるかたんで結果を待っていた。

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