第五話『視界消失』 破

 六日目の夕食時、わたる達は「こうてんかん」の使用人であるおうぎから、翌日の朝食時に冊子「へらぶないくほう」を持参するように言い付けられた。

 しんなどは「試験に資料を持ち込める、カンニングし放題だ」と脳天気に喜んでいたが、わたるにとっては逆に不安の種であった。

 試験の途中で冊子を参照しても良いということは、それを前提とした課題を用意しているということである。

 あるいは、実技形式なのか――冊子には「戦うための力」について書かれており、その可能性も充分あり得る。


 そして七日目の朝、わたる達は食堂に待機させられ、そのままワゴン車へ乗せられた。

 車内ではのんに爆睡するしんと冊子を熱心に読み込むを除き、皆不安気に流れる景色を見詰めていた。


何処どこへ行こうというんだ?」


 狭い車内で山道に揺られながら、わたるは運転席のおうぎに問い掛けた。

 バックミラーに映ったおうぎは微動だにせず、簡潔に答えにならない答えを返す。


「本日、試験を行うとつたえしていたはずです」


 わたるは嫌な予感を覚えた。

 初日にもろくに内容も伝えられないまま死ぬようなひどい目に遭わせてきたのがそうせんたいおおかみきばである。

 車内のよどんだ空気が、わたる以外の六人もおおむね同じ様な思いを抱いたと雄弁に物語っていた。


⦿


 山の中へ入ったワゴン車を道中でめ、おうぎわたる達を森の中へと誘い込んだ。


「迷う恐れが御座いますので、どうか固まって歩かれますよう」


 おうぎの後を歩き、わたるは逃げる隙をうかがう。

 あまり森の奥深くに入られると遭難の恐れがある。

 決行するならば早い方が良いだろう。


 が、木々が少し開けた場所に踏み込むと、おうぎは不意に足を止めた。

 わたる達の立っている場所は、切り立つ崖の上の小高い丘になっている。


「では、試験を開始いたします」


 おうぎの宣告に「どういうことか」と問う暇も無く、わたる達は突然猛スピードで突っ込んできたワゴン車にかれて、崖下に落とされた。


「ぐああああっっ!!」


 またしても崖から転落させられたわたる達だったが、今度はすぐ地面にたった。

 わたるは起き上がり、周囲に目をる。

 不意打ちには驚かされたが、この状況はく立ち回れば逃げるに絶好の機会だ。

 ちゃな仕打ちにもかかわらず無事に済んでいるのは、初日に飲まされた薬の効果が今も継続しているということだろう。


「な、何しやがんだ!」


 真っ先に怒号を上げたのはしんだった。

 うつうつらと歩いていた分、突然轢かれた驚きは大きかったのだろう。

 だが、わたるを含めた他の者達にとってその反応はワンテンポ遅れたものだった。

 状況は既に、おうぎに文句を言っている場合ではない。


「う、うそでしょう……」

「あわわ……」


 それを見たまゆづきふたは恐怖に顔をらせた。

 わたるほおにも冷や汗が流れている。

 七人が落とされたのは崖と言うより巨大な落とし穴で、四方八方全てが地層の壁に取り囲まれていた。

 そしてその中には、わたる達の他に一頭のどうもうな肉食獣が潜んでいたのだ。


ひぐまっ……!?」


 わたる達は一様にあおめた。

 それは体長三メートル、羆の中でもかなりの大型で、虫の居所が悪いといった様相で牙を剥き出していた。

 わば、共におりの中へ閉じ込められたも同然の状況である。

 そして檻の主は、誰もが知る日本最大の危険な肉食動物なのだ。


「その羆は皆様が落ちた穴から何日も出られず、餌に有り付けておりません。これが何を意味するか、みなまで言わずとも御理解いただけるかと」


 おうぎはよく通る声で、しかし冷淡に言い放った。

 要するに、これから腹をかせた羆が襲ってくるからどうにかしろ、ということだ。


「事前に皆様にお渡ししました『へらぶないくほう』の中身を真に御理解なさっていれば、飢えた獰猛な羆を殺すことなどやすいかと存じます。これを、皆様に対する試験に代えさせていただきます」


 無茶を言うな、とわたるの胸に焦りと怒りが込み上げてきた。

 理科の実験でもそうだが、実験の方法を座学で理解するのと実演するのとでは全く違う。

 テキストを理解しただけでいきなり実践しろと言われてもすがに難しい。


さきもりまずいぜ」


 すっかり目が覚めた様子のしんわたるに声を掛ける。

 彼が指摘したかったのは、すっかりおびえて動けそうにないふたまゆづき、そして何とか気を確かに保っているものの表情をこわらせているだった。


「兄ちゃんよ、ちゃんと身に付けとくべきだったな」


 おりは不敵に笑いながらわたるの準備不足を皮肉った。

 戦い方に関する内容は十巻もある長い冊子の末尾であり、到達するのに日数を要したのが痛かった。

 一応、皆で練習しなかった訳ではないが、合同練習では誰も何一つ身に付かなかった。


「参ったな、あぶ

「ああ」


 そして無情にも、羆は猛スピードでわたる達の方へ迫って来た。

 空腹で追い詰められた羆に人間を恐れる様子は無い。

 この野生の猛獣は平気で数人を犠牲にする。

 そんな獣害事件が過去何件も報告されている。


 羆が狙ったのは最も小柄なふただった。

 悲鳴を上げ、頭を抱えてしゃがみ込む彼女に、羆の剛腕と怒爪いかりづめの暴威が襲い掛かる。

 絶体絶命、ふたの体は引き裂かれ、二人目の犠牲者発生かと思われた、その時だった。


ずみさん!!」


 わたるふたの体を抱えて、羆の殺意から間一髪で逃れさせた。

 その際、わたるは羆よりも速くふたへ駆け寄り、人間業とは思えない跳躍力を発揮して彼女に飛び付いていた。

 地面を一回転したわたるは、ふたの無事を確かめる。


「大丈夫か、ずみさん」

「あ、ありがとうさきもり君」


 ふたは無かった。

 安心したのもつか、羆は攻撃を回避した二人を追い掛けてきた。

 この猛獣の恐ろしいところの一つは執着心である。

 また、逃げるものを追い掛けずにはいられない習性も持ち合わせていた。


おれが相手だ、けだもの!!」


 しんが後から羆の頭を殴った。

 拳は光を放ち、一発で羆をふらつかせる程のすさまじいりょりょくが発揮された。


「徹夜で追加練習しといて良かったな、さきもり!」

「ああ。だがやっぱり全員を巻き込むべきだったよ」


 前日、不安を覚えたわたるしんを起こし、きゅうきょへらぶないくほう」に書かれている「力を発揮する方法」を追加練習していた。

 しかし、夜遅かったこともあって他の者達は寝静まっており、起こすことも出来なかったので、二人だけで練習するしかなかったのだ。

 座学の試験だった場合に徹夜がマイナスになる懸念もて切れなかった。

 そんなわけで、わたるしんだけは即興で戦いに備えられており、いざというときは皆を助けようと考えていた。


 冊子によると、わたる達が薬によって身に付けた力の名前は「しん」。

 それは自律神経が意識とは無関係に心臓を鼓動させ代謝を行うように、驚異的な耐久力と回復力を常時働かせている。

 しかし、重い物を動かすには力を込める必要があるように、超人的な身体能力は何気無く発揮される訳ではない。


 しんとは「神の行いをする」ことを意味する。

 あくまでも人為的なものであり、神の威光そのものとは異なる。

 或いは「しん」と称することをしたものでもあるらしい。


 それは、自らの中に神なる意識を内在させ、その力を意のままに操るというかみがかりの模擬である。

 その内なる神の深部に意識を向ける程、より超常的な力を発揮することが出来るのだ。

 力の深さには段階があり、薬を飲んだだけで身に付けられる耐久力と生命力は第一段階、わたるしんが発揮したような超人的な身体能力は第二段階という訳だ。


 二人が一夜掛けて練習しなければならなかったように、第二段階の力を発揮するには一寸ちょっとしたこつが要る。


あぶ!」


 怒れる羆の剛腕がうなり、しんに猛威を振るう。

 しんは辛うじてかわしたものの、わたるの声掛けが無ければ危なかった。


「サンキュー、さきもり

「二対一で、力を身に付けたとはいえ油断するなよ。相手は日本でも最大最凶の野生動物なんだ」

「それはそうとして、こうこくって日本なのか?」

「今は良いだろ、それは」


 下らない会話をしている隙に、羆がわたるおおかぶさってきた。

 この攻撃を躱すのは容易かった。

 だが、二人は大きなミスを犯していた。


「きゃああああっっ!!」


 羆は待避しようとしていたふたを追い掛ける。

 すぐ近くにふたが居ることを失念していたわたるしんの失策、そして逃げるものを優先して追う羆の習性が、彼女を危機に陥れていた。

 ばんきゅうす、その場の誰もが惨劇を予感せざるを得なかった。


 が、その時羆の頭に強烈なラリアットがさくれつした。

 ふらつきながらも驚いた羆は、不意に飛び掛かった女の方をにらける。


「しっかり守れ、共!」

椿つばき!?」


 椿つばきようの赤毛が太陽に照らされていた。

 彼女は羆の反撃を躱しつつ、首元に光る蹴りを入れる。

 その動きは何やら武術の心得があるように見え、また攻撃の威力は明らかにしんの第二段階に達していた。


椿つばき、お前おれ達に内緒で練習してやがったな!」

「何だよあぶ、文句あんの?」

「誘えよ!」

「知ったこっちゃないね。貴方アンタらとは元々他人なんだ。必要以上にうつもりは無いよ。武術家として、超人的な身体能力とやらに個人的な興味があっただけだしね」


 椿つばきの蹴りに耐えかねてか、羆はその場から動かず、うずくまってうめごえを上げていた。


(つ、強え……)


 その女とは思えない強烈な武威に、わたるは畏怖すると同時に故郷のおさなじみうることを思い出す。


(なんでこんなにやたら強い女と縁があるんだ、ぼくは……)


 余計なことを考えてしまったわたるだったが、幸いにして羆はまだダメージから立ち直っていなかった。

 だが決定打にはならなかったようで、怒りにゆがんだものすごい形相でわたる達のことを睨み付けている。


「ありがとう、ようさん」


 ふたは目に涙を浮かべて椿つばきに礼を言った。

 余程怖かったのだろう、無理も無い。


「相部屋のよしみさ。あたしの後に隠れてな」


 椿つばきふたを下がらせる。

 そして、わたるしんに発破を掛けた。


「他の連中はあたしが守る! 貴方アンタ達はそのけだものをさっさとやっつけちまえ! 熊殺しの称号はくれてやるよ!」


 わたる達の目の前では羆が立ち直り始め、おもむろに体を起こしていた。

 依然として、彼らが危機に直面している状況は変わらない。

 ならば、それを除去しなければならない。


「だってよ、有難いこったな。じゃ一丁やるか、さきもり!」

「ああ。さっさと片付けよう、あぶぼく達には他にやることがあるんだ」


 わたるしんは七人の命運を背負い、羆狩りに改めて挑む。

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