ヘルマン村のアンジェリカ (5)

 翌日の朝。

 身支度を整え、帰る為にトランクの中身を整理をしていれば昨日のメイド、フリジアが軽い朝食を持って部屋を訪れてくれた。すっかり髪も一人で結ってしまっていたアンに「ベッドではなくテーブルにご用意しますね」と丁寧に接してくれる。


 何もかもが初めての持て成しにアンも「有難うございます」と言うばかりで二人で恐縮しきりになってしまい、ついには笑い出してしまう。


「大切なお客様に申し訳ありません」

「そんな、私もどうしたら良いか分からずに失礼な事をしてしまっていたらと気が気じゃなくて……」


 朝は他に仕事があるだろうから、とアンはすぐに席に着いてフリジアと他愛ない会話を交わす。彼女はこの屋敷で働いてもう長いのだそう。

 清潔な白いヘッドピースに揃いのエプロンと黒いロングのワンピースドレス。手先は少し、冬の水仕事で赤くなっていたが辺境伯夫妻が使用人を大切に扱っている事が伺える。


「お時間になりましたら、またお呼びいたしますので」


 フリジアの丁寧で、堂々とした挨拶の仕草をじっと見つめてしまったアン。きっと彼女は自分の仕事に誇りを持っている。

 自らも、仕事の種類は違っても薬草や植物に関わる者として、農耕大国のシュレーゲル王国の住民の一人として誇りを持っていた。きっとそれと同じなのだとアンは思う。


 一人、朝の日差しが差し込む窓辺で朝食をとって暫くゆっくりしていると「アンジェリカ様、支度が整いましたので温室までご案内します」とフリジアがまた部屋を訪れて案内をしてくれる。広い屋敷、裏手にあると言う温室までアンは恥を承知で「紅茶がとても美味しかったです」と彼女に伝える。温度管理や抽出方法も完璧で、茶こしに残っていた開いた茶葉を観察していたら……とつい言いすぎてしまって口を噤むと「使用人としてお客様から褒めて頂けるのは有難き事です」とフリジアは朗らかに笑ってくれた。


 屋敷の裏手、とは言っても明るい場所に温室はあった。


 広さとしては大体、村にあるアンの家の部屋が三つ入るほど。部屋の広さを推し量る単位が自分の部屋になってしまっているアンの到着よりも早く、既に待っていてくれたマドレーヌ夫人と朝の挨拶を交わす。


「夫や私の身分もあって、屋敷の者以外に土に触れている事は言えなかったのだけど……あなたならきっと私の植物たちにとって良い事が聞けるかもしれないと思って」


 確かに、貴族の女性が土に触れる事はない。

 ましてや作業の為のエプロンドレスを身に着けることも、作業のしやすい服装になる事もない。

 屋敷の敷地内に広い庭や温室を持っていてもその管理は庭師や雑役の使用人が手入れをして、家主は観賞をするだけ。けれどもそう言った庭の管理などはアンたちにとって良い働き口ともなっていた。


 どうぞお入りになって、と丁寧に促されたアンは夫人の温室に足を踏み入れる。


 入室する前からガラス越しにも植物が青々しく育っているな、と思っていたが中に入ってみれば想像以上にアンの興味を惹く植栽たちがあった。


「素晴らしいですね……凄い、こんなに」


 朝の日差しに輝く様々な種類の植物たち。

 しかも野菜から観賞用の花、薬草などなんでもある。

 規模で自慢するのではないその内容の濃さ。アンは気を張っていないと感嘆の溜め息が出てしまいそうなくらい、マドレーヌの管理する温室の中は充実していて立派なものだった。


「まだこの時期ではこの花には早いですが休眠ロゼットも、逆に徒長とちょうもさせずにしっかりとちょうど良いくらいの成長で蕾を持たせて……膨らみも良いですし、日当たりからして開花までそう時間はかから、な……申し訳ありません……出過ぎたことを」


 ふふふ、と笑うマドレーヌに入り口で控えてくれている夫人の侍女やフリジアも笑っている。


「良いのですよ、アンジェリカ。その為に私の温室に招待したのですから時間が許す限り、私とお話をしましょう」


 アンは僭越ながら、と小さく返事をする。昨日の夕食の席から良くして貰っているけれど夫人は今、一番の笑顔をむけてくれている気がした。


「実はね、昨日の夕食にあった添え物の香草は私が育てたの……でも、夫もいた席だしあなたは大切なお客様だから言わなかったのだけど」


 恥ずかしそうにしている仕草も含めて彼女は本当に植物が好きなのだと分かる。立場と言うものに明言を阻まれてしまうことはあっても、緑が溢れる温室を管理し続けているのだからマドレーヌにはダンデリオンと同じように何かしっかりとした芯が通っているようだった。


 植物の成長は時間が掛かる。

 いくら寒い時期の温室と言っても完全な閉め切りには出来ない。こまめな湿度の管理と日中の温度変化にも気を配らなくてはならず――この温室内、マドレーヌの栽培方法は木箱に土を入れて植えつけ、個別に管理をする方法を採用していた。

 確かに木箱を栽培箱として使っているのなら日差しや風の当たり具合など気になった時に移動させる事が出来る。


「凄いですね……仕事として、私も村の温室にいつも入っていますがとても理にかなっています」


 財のある貴族の方とは言え個人でここまで出来てしまうのだろうか、とアンは考えてしまう。簡単に移動させられるように木箱での栽培の実施、植えられている植物の種類は雑多に見えてもそれぞれによく育っている。


「実はね、アンジェリカの案内を頼んでいるフリジアに時々お使いでシュレーゲル王国から集められている植物に関する写本を買ってきて貰っていたの。勿論、住み込みの庭師もいるのだけど私一人でこの温室を作ってみたくて」


 そうして始めたら毎日忙しくて、と夫人は自ら温室に下がっていた太い紐を手繰り寄せ、カラカラと滑車を回して換気の為に温室の窓を少しずつ開ける。今日は天気も良さそうなので朝から開けても大丈夫なのはアンも経験上で分かるが夫人もしっかり理解しているようだった。


 畏れ多くも、アンは感心してしまう。

 ひとしきりマドレーヌと見て回りながら話をさせて貰っていると重厚な冬の騎馬用の衣類に身を包んだダンデリオンが温室の入り口にやって来た。

 すぐにご挨拶を、と身を低くしたアンに「妻の趣味についていけるのはアンジェリカと庭師くらいか」と言いながらアンの隣でとても満足そうにしている夫人を見る彼の眼差しは優しい。


 どうやら王都まで向かうようで、衣類の様子から馬車ではなく自らが馬に乗っての移動……確かにその方が断然早い。ダンデリオンも「昨日の報告をしに王都まで、な」と説明をしてくれた。


「アンジェリカ、追って知らせは村長と君の家にも送ろう」

「有難うございます」

「素晴らしい事だ。そんなに気後れしなくともいい。君は豊穣の手を持つ以前から立派なシュレーゲル王国の技術者なんだ」


 堂々として良い、と彼は言う。

 そう言えば夫人付きの侍女より下の格にあたるハウスメイドのフリジアも接する時間は短かったが堂々とその仕事を全うしている姿をアンも見ていた。

 これは辺境伯の方針なのかもしれない。土に触れる夫人の趣味にも寛大で、男性も女性も使用人の服装はそれぞれにきちんと仕立てられ、ほつれなども全く見当たらないくらいに良い品質の物を着ていた。

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