第2話

 ぼんやり明るい紺青の空に、欠けた月が白く光っている。その側にダイヤモンドが一粒、凛と輝いている。


 とっ、とっ、とっ、と。


 たっ、たっ、たっ、た。


 二つの足音が重なって、アスファルトの上を流れていく。


 私の右手に遥輝の左手が重なる。絡み合う指と指の感触がいつもどおりで、二十四時間後に地球がなくなるなんて信じられない。


「美穂はいつだって美穂らしいよね」


 にかっと笑って遥輝は言う。


「そうかな」


「そうだよ。『今から海に行こう』なんてこんなときに言うのは、美穂ぐらいだよ」


「そういうの、嫌?」


 等間隔に並ぶ街灯が、足元に薄い影を落とす。


「びっくりするよ。思いつかないようなことばかりだもの。でもね、そういうところが好きなんだよ」


「私はそうやって毎回のように無茶振りに付き合ってくれる遥輝が好きよ」


「ってことは、俺はリュックサックと同じ?」


「そんなわけ無いでしょ、ばか」


 私の心の全てが遥輝に伝わるように祈りながら、右手にぎゅっと力を込める。


「遥輝が遥輝だから好きなのよ」


 噛みしめるようにその言葉を口にする。


 するりと私の手から遥輝の手が離れる。そして、その手が私の腰に回され、反対の手が私を引寄せるように頭に添えられる。ゼロセンチメートルの距離から感じる三十六度の熱が心地いい。


 そのまま時が止まってしまっているかのようにじっとしていたが、ゆっくりと顔を上げると遥輝の黒い瞳に私の姿が映り込んだ。


「行こうか」


 私がそう言うと、遥輝の手も体も元の位置に戻った。


「うん、行こう。海はまだまだ遠いからね」


 そうして私達は、また、他愛もない話をしながら歩き出した。

 

 お互いの好きなところ、今までしてきたデートのこと、共通の思い出話。話すことは次から次へと出てきた。会話が止まることはなかった。


 車が一台も通らない幹線道路の真ん中を、ただひたすらに道なりに歩き続けた。

電気の点かないネオン管が壁のあっちこっちにくっつけられている建物、車のいない空っぽの駐車場、塗装が剥げて文字が読めなくなった看板。シャッターに貼られた「当面の間お休みをいただきます」は何度もテープで直した跡があるが、それでも後半の部分はインクの滲みでもうなんて書いてあったか読めなくなっていた。


 こんな色褪せて静かな街並みも、二年前までは鮮やかな光と騒がしい音で溢れかえっていたのに。今では見慣れてしまったこの景色とは真逆の、思い出の中にしまってある街並みをぼんやりと思い返す。

いつでも誰かとぶつかりそうなくらい人で溢れていた歩道、その横をマーブルチョコレートみたいにカラフルな車たちが忙しそうに走り抜ける。ザワザワとした音の波があってからもこっちからも押し寄せてくる。街灯、看板照明、航空灯、街路樹に巻かれた電飾、それに騒がしいくらいにあっちこっちに張り出されている看板と、それについている電飾たちのせいで、四角く切り取られた空は夜でも真っ暗になることはなく、まるでパレットの上みたいに色で溢れかえっていた。


 でも今のこの風景は、絵の具なんか使わないで、黒鉛筆一本で十分なくらいだ。


 ひゅうっと風が頬をなでて通り過ぎる。その風はちょっと湿った土の匂いがした。


「ねえ。海まであとどれくらいかな」

 

 足を止めずに遥輝に聞く。

 

「ええっと、もうすぐ折り返し地点ってくらいかな。だからこのペースならあと五時間くらいかな」


「もうそんなに歩いていたのね」


 ずっと話しながら歩いていたから、そんなに遠くまで歩いていたような気持ちにはなっていなかったのだが、時間を意識すると急に足が重たくなってきた。


「そろそろ休憩する?ちょうどあそこにいい場所があるし」


 遥輝が指差す方向を見ると、一階にだけ明かりのついているビルがあった。青く光る看板が、そこは元々コンビニエンスストアであったことを教えている。


「ああ、配給所ね」


 私は青く光る看板の文字ではなく、窓ガラスに大きく貼られている文字を読んだ。


「もう配給所じゃないでしょ。どうせ、配るものなんて残っていないだろうし」


「そうかもしれないけれど、もうコンビニエンスストアでもないでしょ」


「じゃ、あれはなにになるのかな」


「さあ。箱じゃない?」


 自動ドアを通り抜けると、入店を知らせる軽快な音楽が誰もいない箱の中に鳴り響いた。


「いらっしゃいませ。国民カードを提示して本日の配給をご確認ください。お買い物の場合は商品をスキャンしてください」


 自動音声が無人レジから流れる。どこの店やコンビニエンスストアでも聞くようになった「配給」という言葉。それは文字通り、この地球外生命体からの侵略により仕事を失った多くの人を救うために、国が決められた量の食料を無償で国民に提供するシステムのことである。一週間に一度くらいの頻度で配給は行われ、自分の取り分はコンビニエンスストアやスーパーマーケットなどで受け取ることが出来るようになっているが、限度以上の配給を受け取らないようにするために「国民カード」でその量は厳しく管理されている。


 無人レジの前に立ち、国民カードをバーコードリーダーにかざす。


「本日受け取り可能な配給は、ゼロ、件です。ご利用、ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」


 硬くて冷たい声で案内が流れる。


「そりゃ、そうよね」


 店内にずらりと並ぶ空っぽの商品棚を見て私は口の中で呟いた。


「どうせあったとしても、固くてまずい栄養食だよ。持ってきたやつ、食べようよ」


 遥輝はもう、店内の隅っこにあった机の上に荷物を広げていた。元々はイートインスペースだったのだろう。机の周りには椅子が並べられ、その側にはコーヒーメーカーやポットがあったが、どれも薄っすらと埃をかぶっていた。


「うん、食べよ」


 軽く埃を払って、椅子に腰掛ける。ズン、となにかが足の上に乗っているかのように重たい。どうやら、意識していなかっただけで足はかなり疲れていたようだ。

 

 水筒の水をコップに注ぎ、スープの素を溶かす。カンパンをそれに浸せば、更に美味しく食べられる。配給生活がなければ、こんなふうにカンパンを食べてなんていなかったかもしれない。


 もっそもっそと口を動かす。味のないレーションとスープに浸したカンパンを交互に口の中に運び、カロリーを摂取していく。


 遥輝は手慣れた手付きで缶詰を開ける。


「ほら、あーん」


「ん、ありがと」


 差し出されたシロップ漬けにされている桃を口に入れる。甘さがじわじわと体の中を巡って、なんだか元気が出てくるみたいだ。


 持ってきた食料の半分くらいを消費して、少し腹休めもしてから私は立ち上がった。


「さて、行こっか」


「海までまだまだ遠いけど、頑張ろっか」


 自動ドアをくぐり、外の空気を胸いっぱいに吸う。まだ、海の匂いはしない。

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