黒猫のネスは怖がらせたい

桃李 蹊 (とうりこみち)

あめのひ 1

 夏の夜雨がバスの窓を激しく叩く。無論、バスの中の空気は湿気とカビに満ちており、私を最悪な気分にさせる。私は窓に映る自分のアホ毛を見て大きくため息をついた。

 残業疲れの溜まる仕事帰り、私と運転手のふたりだけを閉じ込める田舎のバスは町はずれの森の中にある私の家を掠めるだけに役立っている。その私の家まではあと15分ほどかかるが、これと言ってすることもない。

 私は暗闇を背景に鏡と化している窓が見せつけるアホ毛を煩わしく思い、普段は全く開くことのないラジオアプリを開いて適当に流れてくる話に耳を傾けた。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 稲川純一の怖ーい話。というわけでね、いつものように私が体験した怖い話をしていくわけですけどね。今回は富山県のある有名なダムを調査した時の話をしましょう。

 私がその調査をしたのはですね、ある噂話が私の耳に入ってきたからでして、そのうわさ話というのは「夜のダムに女の霊が出る」という話。私にとってはその手の話は毎日のように耳に入ってくるわけでして、それも殆どが勘違いだったり何もなかったりするわけです。今回もどうせなにもないんだろうと大して期待しないで現場に向かったわけですが、今回はどうも様子が違かったんです。


 その日、私は夜の10時ごろにスタッフと現場に向かいました。しかし、その日は私たちに電話をくれたダムの関係者が熱で寝込んでしまったとのことで案内役はなく、以前に話を伺った際に聞いた「ダムの天端てんば、駐車場から4つ目の街灯の下」という情報のみを頼りにするしかありませんでした。天端てんばというのはダムの上にある道のことです。この機会に覚えていただければと思います。

 私は暗い場所は慣れっこなんですが山道は苦手でして、スタッフの運転する車に揺られながらゲロ袋を持って現場までの30分間は耐え忍んでいました。もちろん酔い止め薬は飲んでいましたが、それでも苦しいと思ってしまうほどの山道でしてあれは本当にまいった。しかし、この日は苦しんでいたのは私だけじゃなかったんです。普段は車酔いなんかしない私のマネージャーも、いつも笑顔が素敵なカメラマンも、更には運転手も顔色が悪かったんです。私はその様子を見て、ここはマズいかもしれないと思って。マズいというのは本当に強い霊がいる場所に向かっていて、その警告を受けいているんだと思ってマネージャーに引き返すように言ったんですよ。でもね、私のマネージャーは霊なんて信じていないし、スケジュール的に明日は無理だと言って聞かないんですよ。マネージャーの言うことは絶対ですから、私たちはそのままそのダムへ向かうことになりました。

 ダムに到着したのは夜の23時頃でしょうか、私たちは駐車場に車を止めて歩いてダムの天端に向かいました。しかし明らかに異常な雰囲気を私はずっと感じていました。うっすらと山のシルエットだけを映す曇りの空と真っ暗な山は生き物の気配はなく、風もない空気はひどく澱んでいました。これは普通あり得ないことですよね。だって山の中といえば自然に包まれて綺麗な空気があるわけじゃないですか。夜の山ならばヒンヤリとして気持ちのいい空気が虫の音と共に聞こえてくるはずです。それが全くないんですから私はもう怖くて怖くてかなわないわけです。どこかこの世ではない空間に迷い込んでしまったように感じました。

 ですがね、私をさておいて私のスタッフは早く仕事を終わらせようとせっせと先に進んでいってしまう。彼らは霊感がない方の人間ですから、違和感なんて感じずに歩いて行ってしまうんですよ。風もないのにはっぱが揺れていたり、白く照らされる街灯の錆が赤黒かったりするのには全く気付かないんです。バチッ、バチッと音が鳴る電線の音が警告音だということも彼らは気にしない。私は車の中に引き返したいという気持ちがあったのですが、経験上ひとりになることが一番危ないということを知っているので渋々彼らについて行きました。

 ダムの天端を歩いて、駐車場から4つ目の街灯に辿り着きました。私はソワソワしてスタッフの周りをうろうろして怖い気持ちをやり過ごそうとしていましたが、スタッフは撮影用の機材を用意したり段取りを確認したりといつも通りです。機材の用意には5分ほどかかるので私はその間、ずっと周りの様子を確認していました。ダム湖は映る空と山の影を飲み込んでしまうほど黒く、街灯に照らされて綺麗に映るはずの私の影もダム湖の水と隔たりなく混ざり込んでいました。ダム湖の反対側の山の渓谷側を覗いても真っ暗でまるで奈落です。長く覗いていると霊に体を掴まれて無意識に飛び込んでしまいそうなので、私はすぐに覗くのをやめてマネージャーのノートに書いてある段取りを機械的に眺めて時間をやり過ごすことにしました。

 さて、いよいよ撮影の時間です。私は三脚に乗るカメラに向かって話し始めました。「今回はですね、富山県のとあるダムに来ていましてね。このダムの関係者さんから依頼を受けてきたんですよ」と、まあいつものように導入をし始めました。しかしここで私は続きの言葉が出なくなりました。

 私はダムの水が溜まっている側を背に話していて、スタッフはダムの奈落側に背を向けて私と向き合っていた。私はスタッフの後ろの奈落側から黒ずんだ手が天端の縁を掴んでいるのを見逃さなかった。ナニカが登ってくるのを私は見てしまった。私が固まっている様子を見たカメラマンはふと後ろを振り返ってすぐに私が固まったワケを知りました。

「「うわぁぁぁぁあ!」」

 そのカメラマンはすぐに車の方へ向かって走り出し、私と他のスタッフも慌ててその場から逃げ出しました。逃げているとき、うしろの方からヒタヒタと、いやもっと粘っこい音が私たちの後ろをつける音が聞こえてきましたが、振り返ったら終わりだとみんな思ってただただ必死に車に飛び乗って運転手がアクセルを踏むのを待ちました。運転手さんは本当に優秀で、手元を一切崩さずにエンジンをかけてギアをドライブにいれましたが、私はその時間がとにかく長く感じました。あれは本当に本当に長く感じた。なぜならミラーに映るナニカが私たちの車に目を爛々とさせて這い寄ってきたのですから…。


 さて、結局のところ私たちはその場から逃げ切ったので今があるわけですが、後日談もいろいろあるので最後にそれをお話ししましょうか。その次の日、私たちは現場に残してしまったカメラ等の機材を回収しにまたそのダムへ向かいました。今度は真昼間だったため怖さは半減といったところですが、カメラマンは寝込んでしまっていて運転手はもう行きたくないとのことで私とマネージャーだけで向かいました。さっさと機材を回収して帰ろうと私たちは無言で道具だけを拾っていたのですが、カメラに絡みついた長い髪の毛は触ると錆びのような物が手について間違いなく昨日のナニカの物であると確信しました。

 カメラの録画を確認したところ、ハッキリとした姿は映っていませんでしたが黒い靄のような物が私たちの後を追っていく映像が撮れていましたね。私が目でハッキリとそのナニカを捉えることができたのは私たちが現世と常世の狭間に迷い込み、ナニカも現世に迷い込んでしまったからなのでしょう。私たちはとても不安定な世界に住んでいるということを痛感しました。

 また、依頼をしてきた女性に連絡を取ろうとしているのですが未だ連絡はつかず、ダムの管理会社へ連絡を取ったところ、依頼をしてきた名の女性は存じ上げないとのことでした。もしかしたら私たちをあの場へ導いたのは霊の自作自演だったかもしれませんね。


 さて、今回の話はいかがだったでしょうか。怖かったですか?嘘っぱちだと思いましたか?私はどちらと捉えて貰っても構いませんが、決して霊を異常なまでに恐れたり霊を侮ったりするようなことはしないでくださいね。霊や異界はいつも隣り合わせ。いつだって私たちはあちらの世界と接点を持つことができるのです。きっとあなたのすぐそばにも…。それではまた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 珍しく聞き入ってしまったラジオの音は22時を知らせるポーンという音と共にテンションが変わり陽気なお姉さんの声に切り替わった。しかし怖い話が頭にこびりついてしまった私は神経が研ぎ澄まされてしまい、目が泳ぎ鼻で呼吸をする。窓に映る私のその奥の外の暗闇に目を凝らしながら、私はアホ毛を指で束ねてくるくると指に巻き付けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る