<7・Escape>
人は想像もしなかった危機に直面した時、すぐに判断を下して動くということができないものである。何が起きているのか、それを理解するのにまず時間を要して、さらにその事態に対して“今何をするべきなのか”と判断するのにさらに時間が必要なのだとか。
朝香も子供の頃、テレビで見たような気がする。
上からものが降って来た!危ない!となった時。とっさに判断して逃げられる人間は何人いるのか、という実験だ。今の時代でやったら非難轟轟だっただろう。なんせ通行人の上に、いきなりビルの上から紐で結んだ大きな発泡スチロールのようなものを落とすのだ。当然、実験の内容からして“これから何をしますよ”という承諾は得ていない。下手をしたら、通行人に対して実験対象にしますということさえ了承を得ていなかったかもしれない。いくら落とすのが硬くないものであり、かつ紐で結んであるのでけして相手にぶつかることはないと言ってもだ。
実験の内容で印象的だったのは。物が落ちてきてぶつかりそうになっている通行人Aと、それを偶然見ていて危機を知らせたい第三者B(この場合、第三者Bはテレビのタレントやスタッフが務める)。Bがなんと叫んで危機を知らせるかによって、Aが適切に対処できるかが変わってくるというものだった。
危機が迫っている人に対して、人が一番最初に叫んでしまう言葉は基本的に“危ない!”だろう。だが、スタッフが“危ない!”と叫んで危機を促した通行人は、殆どが逃げることができなかった。その場に蹲るか、あるいはどうあがいてもものがぶつかりそうになってから逃げだした。何故か。危ない!では何が危ないのか理解するまでに時間がかかるからである。
自分の身に何が迫っているのか。
己はそれに対してどうするべきなのか。
その過程を得て、さらにそこから正しい結論を導き出す。人の思考はそういう三段階を得る。しかし、それをやっている時間が通行人Aには足らなかった。ものがぶつかってくる数秒間の間に結論を出して動くことが人は難しかったということである。ただし、第三者Bが叫ぶ言葉を変えることによって、通行人Aが逃げられる確率を上げることができるのだ。
つまり。“危ない”ではなく“逃げろ”と叫ぶのである。
それによって、“己がそれに対してどうするべきなのか”を考える時間が大幅に短縮される。結果、その短縮された時間の間に、落下物から逃げられるという寸法なのだ。
――な、なんで。
そして。
僅か数秒の間に、何故朝香がそんなことを考えてしまったのかと言えば――他でもない。目の前で起きていることをとっさに脳が考えることを放棄してしまい、現実逃避に走ったからに他ならないのである。
車輪が外れて、こちら側に横倒しになって倒れてくる馬車。
なんで、なんて考えてはいけない。なんでもいいから逃げなければいけない。それなのに、スローモーションのように見える光景の中、朝香は余計な思考ばかり回して動けなかった。あまりにも、突発的な事故に慣れていなかったがために。
そういえば、あの夜。瑠子と飲み会して酔っぱらって帰り、ホームに落ちて電車に轢かれそうになった時も同じだった。目の前の景色が突然スローモーションのようにゆっくりとなって、凍りついたように動けなくなって――。
「逃げろ、コーデリア!」
その言葉に、はっとして朝香は一歩後ろに下がった。瞬間、誰かに腕を強く掴まれて突き飛ばされる。
「きゃあっ!」
刹那、がらがらがっしゃん!と派手な音を立てて馬車が崩れ落ちた。派手に尻もちをついたせいでお尻が痛い。絶対青痣になってる、と場違いなことを思った――すぐ近くから呻き声が聞こえるまでは。
「じゅ、ジュリアン!」
見れば、ジュリアンが車体に足を挟まれて動けなくなってしまっている。朝香は慌てて立ち上がり(お尻は痛かったし擦りむいたが、大した怪我ではなかったためだ)馬車を持ち上げようと駆け寄った。
――ど、どうしよう、どうしよう!私を庇ったせいでジュリアンが!
欧州でよく使われていた馬車には二つのパターンがあると聞いたことがある。庶民向けの辻馬車か、貴族が使う大型の二頭立て四輪馬車だ。自動車も普及し始めているが、排気ガスの問題と値段の問題もあって貴族でも使っていない人間は多い。道路が整備されていないと走りづらいという点もあるのだろう。
この二つの馬車は根本的に規模が違う。辻馬車は馬が一頭で引くのに対し、四輪馬車は馬二頭で引いていることからもお察しである。当然、今回朝香が乗ってきたその馬車も四輪馬車の方だった。要するに――重たいのだ。到底、朝香一人で持ち上げられないくらいには。
「お、お嬢様!」
すぐに御者と執事が走って来て手を貸してくれた。男性二人の力を借りて、ようやく持ちあがる車体。どうにか、挟まれたジュリアンの足を引き抜くことに成功する。
「お、お医者様を呼んで来ます!」
ジュリアンの方付きのメイドが走っていく。朝香が助け起こすと、ジュリアンは苦笑いして言った。
「困ったな。……これ、折れたかも」
「ば、馬鹿!なんで私なんか庇うの!死んでたかもしれないのに!!」
「馬鹿は酷いなあ」
どこかにひっかけたのか、ズボンの裾は破れているし血も滲んでいる。痛いはずなのに、彼は笑うばかりだった。
「大切な人を守るのに、理由なんか要ると思う?コーデリア、君は無事?ごめんね、派手に突き飛ばしてしまって」
「人の心配してる場合じゃないでしょ!?」
叫んでから、心の中でもう一人の自分が言う。そうだ、わかっていたはずだ、これがジュリアンという人なのだと。愛するコーデリアのためなら、簡単に命を投げ出してしまえる。最初は政略結婚のようなものだったはずなのに。何もかも望んだ形の結婚ではなかったはずだというのに。
――わかってる。だから、私は君が好きになったんだから。
胸の奥がキリキリと痛む。
ああ、彼は何も知らない。なんて残酷なんだろう――そうやって死ぬ気で守ろうとした女性が、本物のコーデリアではないなんて。いや、ひょっとしたらこの体はコーデリアかもしれないけれど、この身に本来のコーデリアの意思は宿っていないのだ。自分はそれを奪ってしまっただけの部外者。本来、彼にこのようにして守られ、愛される資格などないというのに。
「君に大きな怪我がなくて良かった」
ジュリアンの笑顔が、朝香の心を抉る。突き飛ばされた時についた腕がじんじんと痛む。眼が醒める気配は、ない。やはりこれは、夢などではなく現実だというのか。
「……ありがとう、ジュリアン。でももう、無茶はしないで」
混乱と苦悩の中、朝香はどうにか絞り出すしかできなかったのである。
本来のコーデリアならば、きっと言ったであろう台詞を。
***
代わりの馬車が手配され、それに乗って帰路につく中(コーデリアも医者に行った方が、と言われたが断ったのである。大した怪我でもなかったし、何より考える時間が欲しかったがゆえに)、朝香は馬車の中で思考を巡らせていた。
少しだけ、落ち着きを取り戻しつつある。
何回思い返してもおかしい。――馬車が壊れる事故、なんて。やっぱり本来のゲームにはなかったはずのイベントだ。
「……ねえ、フィリップ」
「?なんでしょう、お嬢様」
現在、馬車に一緒に乗っているのは、執事のフィリップである。元は政府、海軍に所属する兵士だったのを引き抜かれた人物だった。背が高くやせ形の中年男性だが、その肉体は鍛えられている。この屋敷の使用人達の多くは、いざという時主人たちを守れるようにと屈強な者が多い。メイドたちでさえ戦闘訓練をしている。執事といえど、実質は警護兵を兼ねていることが多いのだ。フィリップもまた、その例に漏れないのだった。
「さっき馬車が倒れたのは、車輪が外れたせいだったわよね。……馬車の車輪って、そんなに簡単に外れるものなの?」
「……いえ、そのようなことは」
「ということは、誰かが緩めておいた、あるいは外れる仕掛けをしておいたってことよね?それともメンテナンス不足で事故が起きたの?」
「後者はありません。馬車のメンテナンスは、屋敷のものが複数人で行いますので」
朝香が何を言いたいかなど明白だっただろう。フィリップは苦々しい顔で首を振った。
「メンテナンスは一日に一度、毎晩行うことになっています。あの馬車に関してメンテナンスをしたのは私ではありませんが……三人も担当者がいて、あんな大きな欠陥を見逃すとはとても思えません。意図的に見逃したか、あるいは今朝以降に何者かが馬車に細工をしたと考える方が自然です」
やはりそうか、と朝香は窓を見る。窓ガラスには、露骨に渋い顔をした自分が映っていた。
「つまり、ただの経年劣化で外れて、しかもそれを見逃したって可能性はほぼないわけか」
「……その通りです」
「なるほど。貴方が警察に届けるのを渋ったのは、そういうことね」
これは、相当まずい事態なのではないか。
今回最終的に足を挟まれたのはジュリアンだったが、細工をされたのは朝香=コーデリアが乗ってきた馬車である。つまり、狙われたのは本来コーデリアの方だったということ。事故であるとは考えにくい。なら次の焦点は、細工をされたのがいつどこで?という点だろう。
四輪馬車は、公園の前に停められていた。自分達がお茶会を楽しんでいる二時間あまり。傍にはフィリップもいたし、他の召使いたちも待機していたはず。全員が共犯というわけでなければ、その全員の眼を掻い潜って細工をするのは非常に難しいだろう。しかもあの公園は、そもそも特権階級が身分照会をしなければ入れないような区画にある。不審者が入り込む隙などそうそうないのだ。
とすれば。
最も可能性が高いのは――出発前に既に細工がされていた、という可能性。道中で馬車が壊れても、朝香=コーデリアに怪我をさせるのが目的ならさほど問題ないだろう。たまたまあのタイミングまで持ち堪えた、というだけの話と思われる。
だが出発前、馬車はウィルビー家の車庫にあったはず。そこに入って細工ができる人間は当然、ウィルビー家の関係者に他ならない。警察に言うよりも先に内部調査をしたい、というのは長年この家に仕えてくれているフィリップならば当然の心情だろう。アダムの指示を仰ぐ必要もあるから尚更である。
――紛失した魔導書。それから、細工された馬車。……何かがおかしい。
何か、見えない大きな力が働いているような気がしてならない。
シナリオを壊そうとしている何者かがいるのだろうか。一体それは、なんのために?
――……ああ、もう!頭使うの、そんなに得意じゃないってのに!
残念ながら。
自宅に帰った朝香はさらに、驚きの事実を聞かされる羽目になってしまうわけだったが。
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