17時31分

生田英作

17時31分

(あと、10分──)


 私は画面の隅の時刻表示をにらみつつ、タイムカードを開く。

 いつも思う事だけれど、この残り10分と言うのがくせ者だ。

 だいたい、「よし、イケる!」と思った途端に内線が鳴って、「あっ、青木ちゃん? 定時間際で悪いんだけどさ……」とか「すいませーん。担当が分からなくてぇー、取り敢えず経理にかけたんですけどぉ──」となって仕事が増える。

 遠慮のない同期に、社内の事が不案内な新人さん。

 もちろん、他にもエライ人の気まぐれとか突発的なアクシデント、監査法人の人からのお願い等々、いろんな理由でも仕事が増える。

 そりゃあ、仕事だから頼まれれば「イヤです」とは言えないけどね。

 とは言え──

 もう盛りを過ぎたとは言え今年の夏は暑かったし、この間の健康診断じゃ再検査と言われているし……。

 でも、なにより、今日は花の金曜日。


(今日ぐらいは、定時に上がりたいよね)


 私は、シャツの襟もとを緩めつつ腕時計のデジタル表示をチラリ。

 現在の時刻は、17時25分。


(あと──)


 5分……。


(今日はイケるかな?)


 私は残った缶コーヒーをグビリと飲みながら窓の外を見つめて喉の奥で唸る。

 窓の外、33階から見える眼下の東京の街並みは夕暮れに照らされて一面の赤銅色。

 いわゆる逢魔が時。

 どの会社もそろそろ終業時刻だろうけど、周囲の高層オフィスビルの四角い明りの中をたくさんの人たちが忙しそうに働いているのが見える。

 私の所属する経理四課、正式名称『財務支援統括グループ 財務経理部 経理部 経理四課』もご多分に漏れずもちろん忙しい。でも、忙中閑ありとでも言うか、月中から月末までの一週間くらいはグレーゾーン。

 急な仕事が入らなければ、結構定時に帰れたりもする訳で──。


(あと2分!)


 さあ、あと少し。

 もう内線にも出ませんよ……と大きく深呼吸。

 とかなんとか言ってる間にも時計は進んで残り1分。


(よーしっ!)


 タイムカードにログイン。

 画面上に表れたタイムカードのブラウザの『定時』のボタンにカーソルを合わせる。

 と──



 キ~ン・コ~ン・カ~ン・コォーーン



 業務終了のチャイム。


(よしっ!)


 私は、マウスを握る手も軽やかにタイムカードの『定時』のボタンをクリック。画面に表示された「お疲れ様でした」のメッセージを一瞥するとパソコンをシャットダウン。

 そして、忘れちゃいけません。

 業務用スマートフォンの電源をオフ!

 腕時計のデジタル表示は「17時31分」に。

 さあ、本当に帰りますよ!

 勢いよく立ち上がり、「お先に──」と私が言いかけたその時だった。

 ぐるぅぅぅん、と世界が一転した。


(……うん?)


 周囲の世界が一瞬静止したかと思うと、目の前の床が上に載っているデスクや人たちごと持ち上がって絵本のページでも閉じるみたいに、そのまま私の上に覆い被さって来る。


(……え?) 


 あっ……あっ……あぁ──


「あぁぁぁぁ────っ!」


 何が何だか分からないまま。

 私は目の前が真っ暗になってしまった。




 …………




 …………。

 …………と。

 ………………あれ?

 ほっぺたに感じるこの感触。

 ざらざら……

 微かにふんわり……

 うん?

 ……カーペット?


(? ? ? ?)


 閉じていた瞼をゆっくりと開くと──

 目の前に広がるグレーの見慣れたカーペット。

 私はオフィスの床の上にうつ伏せに倒れていた。


(何だったんだ、今の……?)


 やれやれと首を振りつつ、よっこらしょ、と私がゆっくりと起き上がると……


(…………あれ?)


 そこは見慣れたいつものオフィス。

 いつもの経理四課。

 いつもの会社の風景。

 なんだけど──




 だーれもいない。




 しーん、と静まり返ったオフィス。

 しかも、窓の外はどういう訳か真っ暗。

 鏡のように真っ黒い窓の中に無人のオフィスとそこに居並んだデスクだけがずらり……。


(えーと……)


 なんで、誰もいないのかな?

 って、言うか……周りが全部真っ暗って。

 一体いま何時なの?

 そう思って腕時計を見ると……




「17時31分」




(…………)


 いやいや、窓の外どう見ても夜中だよ?

 オフィスの中にも誰もいないし……。


(それに…………)


 真っ暗な窓に映る無人のオフィス。

 静まり返ったオフィスの中は物音ひとつしない。

 妙に空々しくて無機質で、現実感に乏しいどこか不自然なこの奇妙な感じ。

 私は、思わず二の腕の辺りを摩ってブルっと身震いした。


(なんか、気味が悪いね……)


 とは言え、まあ……


(……帰りますか)


 どうなってるんだろう?

 私はよろよろとオフィスを出て長い廊下をフロアの中央にあるエレベーターへ。

 私の会社が入居しているのは、38階建ての高層オフィスビルの17階から36階までのフロア。エレベーターホールは、各フロアのちょうど真ん中、東西南北をぐるりとオフィスに囲まれるようにして設けられている。

 やっぱりというか、そりゃそうだろうと言うか。

 廊下も無人。

 だーれもいない。

 頭上から空調の規則正しい音が微かに聞こえて来る。



 ………………。



 暑くもないのに私の背中にじんわりと冷たい汗が滲む。

「ポーンッ」とひと際大きな音が鳴ってエレベーターが到着。

 私は会社の総合エントランスのある10階へ。

 ドアの斜め上方にあるデジタルの階数表示をぼんやり見つめていると、

 30階……23階……19階……15階──

 ほどなく10階に到着。

 ドアが開くとまっすぐにエントランスの自動改札機へ。

 無人のビルの中を私の靴音だけが、コツーン、コツーンと響いている。

 まあ、まずは──


(電車が動いているか分かんないけど……駅に行ってみようかな)


 首から下げたIDカードを改札機へタッチ。

 バタンッ、とゲートが開いて、広々としたエントランスホールへ──




 出られなかった。




 目の前に現れたのはエントランスホールとは似ても似つかぬ風景。

 たくさんのデスクとキャビネットやファイル。

 忙し気に行き交う人たちとひっきりなしにランプが点滅する卓上の電話機。


(え……えーと?)


 こ、ここは……?

 私が、傍らの壁に掛かれた部署名に目を凝らすと──



 26階 海外事業統括グループ 海外事業戦略部 海外営業部 海外営業一課~六課



(………………)


 …………海外営業?

 26階……?


(? ? ? ?)


 いやいやいやいや……10階のエントランスの自動改札抜けたら……26階?

 え、なんで?

 いや、おかしいでしょう?

 しかも──

 さっき、33階で見た窓の外は夜中で真っ暗だったのに、26階の窓の外はピーカンの青空とギラギラと照り付ける真夏の太陽。


(えーと……)


 まさか……エレベーター乗ってる間に朝に……なっちゃった?

 いや、それにしたって……ものの一分か二分だよ?

 というか、これ……実際問題、本当にいま何時なの?

 私が、恐る恐る腕時計の時刻を見ると──




「17時31分」




(? ? ? ? ? ?)


 私は頭が真っ白になった。

 えーと……


(どゆこと?)


 私は、頭を掻き掻き周囲をいま一度見回してみた。

 前の前に広がるのはどこまで行っても普通のオフィス。

 どちらかと言えば私の方がおかしい……の?

 いや、それだと……ここは一体なに? 何なの?


(取り敢えず、もう一回エントランスに行って……みようかな……)


 うん……。

 なんか、よく分からないけど……回れ右して再びエレベーターホールへ。

「ポーンッ」と大きな音がしてタイミングよくやって来たエレベーターに乗るとボタンを押して、再び総合エントランスのある10階へ。

 と──


(……うん?)


 さっきまで誰もいなかったのにエレベーターの中に人がいる。

 しかも──

 みんな、コート着てる?


(いま、八月だよ?)


 後ろの背の高い彼なんぞ、ダッフルコート着てるし……。

 訳が分からない私をよそにエレベーターは10階へ到着。

 やれやれ……とエレベーターを降りようとして私は思わず周囲を見回した。




 誰もいない。




 さっきまでエレベーターの中にいた人たちが誰もいない。

 空っぽのエレベーターの中に響く「ポーンッ」という他のエレベーターの到着音。

 ぽっかりと開いた無人の空間。


「………………」


 背中がじわじわと寒くなって来て、思わずぞっとした。

 いくら八月でも冗談が過ぎるんじゃないの?

 私は、両の二の腕を抱くようにして擦りつつ、いま一度エントランスの自動改札へ。

 首から下げたIDカードをタッチすると、扉がバタンと開いて──

 今度こそ──



 22階 製造推進統括グループ 製造戦略本部 生産管理部 生産管理一課~七課



「──はぁぁぁ?」


 思わず声が出た。

 生産管理……生産管理?

 22階?

 22階…………。

 整然と並んだデスクとパソコンのディスプレイ。

 そして、どういうわけか真っ白な窓の外。

 灰色の空からふわふわと舞い降りる雪。

 近くのキャビネットの上には、可愛らしい小さなクリスマスツリーとキャンディの詰まった小さなビンが。


(クリスマス……冬なの?)


 冬……?


(? ? ? ? ? ?)


「あのぉ──」


 しょうがないので、ちょうど通りがかった女性に声を掛けてみた。

 どことなく虚ろな表情と生気のない佇まい。

 えーと、確かこの人は……


「高橋さーん?」


 と────

 高橋さんは、何事もないかのように私の前を素通りした。

 …………。


「えーと……あのぉ、すいません」


 今度は、近くのデスクでパソコンへ向かっている人たちへ。

 だけど──




 ………………。




 無反応。


「須藤課長ォー」


「吉田さーん」


「大川クーン」


 やっぱり無反応。


 まるで機械のようにわき目もふらず目の前のキーボードを叩き続ける人たち。


(無視……)


 いや、違う。

 みんな、まるっきりの自然体。


(もしかして、見えてない?)


 通路のど真ん中に立っているにも関わらず、私の後ろや脇をかすめるようにオフィスから出たり入ったり。

 しかも、何故だろう。

 これだけ人がいて、電話も鳴っている筈なのに……。

 物音ひとつしない。

 それに、どことなくみんな影が薄い。


(………………)


 このオフィスは……何かがおかしい。

 私は、一縷の望みを込めて腕時計の表示を見た。

 もしかしたら、これだけは何か変化してるかも、という一縷の期待を込めて。

 でも、腕時計の時刻は──




「17時31分」




 当然であるかのようにあの時刻だった。

 背中に冷や水をぶっ掛けられたみたいに、私はぞーっとした。

 おかしい。

 いや、もうこれは完璧におかしい。

 何かじゃなくて、全てがおかしい。

 どうやっても出られないエントランス。

 まるで私の事が見えていないかのような、存在すらもしていないかのような人たち。

 脇の下から汗が滴って、喉が「きゅぅ」と苦し気に鳴った。


「────っ!」


 私は、回れ右してオフィスの出口へ。

 もう、どうしていいのか分からない。


(わぁぁぁぁ!)


 叫び出してしまいそうな声を口の中に辛うじて押し込めながら出口へ。

 IDカードを壁のリーダーへかざすのももどかしく、オフィスのドアを開くと──



 19階 事業開発支援グループ 事業開発本部 事業シナジー推進部 事業開発一~四課



「………………」


 目の前に広がるオフィス。

 窓の外の柔らかな陽光とイスに掛けられたスプリングコート。


(まさか……春?)


 それに、オフィスの隅のあの人垣……。

 人垣の向こうになんだか初々しいリクルートスーツ姿の男の子と女の子が。

 え? もしかして、新卒?

 いよいよ時期がおかしい。

 でも、とは言え──


(私も昔ああやって挨拶したなぁ……)


 そんな事を言ってる場合じゃないんだけど、人垣の向こうの初々しい新卒さんたちを見て私は思わずしみじみしてしまう。

 そう。

 私の時も斎藤さんがああやって隣に相撲取りみたいに「ぬぼー」っと立ってて……その斎藤さんも今や本部長だもんね。

 そうだよね、私も永年勤続二十年で表彰されたし……。

 って────


(…………斎藤さん、去年亡くなったよね?)


 ガンで。


(えーと……いるね、斎藤さん)


 そう思った時だった。

 それまで、じっと前を見つめていた斎藤さんが、突然こちらを向いた。


(いっ? 斎藤さんは、私のこと見えてんの?)


 私は思わず目を逸らす。

 まあ、別に目を逸らす必要はなかったんだけど……。

 私が恐る恐るもう一度人垣越しに度斎藤さんを見ると──




 斎藤さんは、いなくなっていた。




(ええええええぇぇ……)


 体の表面が粟立って、私は開いた口が塞がらなくなった。


(あれ絶対──)


 喉まで出かかった言葉を飲み込んで私は首を振る。

 額の冷たい汗を手の甲で拭いつつ、私はおろおろと左右を見渡した。

 とにかく一刻も早くここから退散したい。

 とは言え──

 どこをどう行けばいいのか……。


(もう、いっそのこと──)


 回れ右した私はオフィスの出入り口の隣にある扉のノブを慎重に回す。

 扉に掛かれた「メール室」の文字を一瞥。

 ゆっくりとドアを開くと──



 29階 社員食堂



(もう、何が何だか……)


 頭を抱える私をよそに周囲には、お盆を抱えた薄ぼんやりとした人の群れが佇んでいた。

 窓の外の見慣れたお昼時の東京の景色とカウンターに並んだ料理の皿と湯気。

 私のよく知っている、今日もお昼に利用したいつもの「社員食堂」だ。

 少なくとも外観は。


(落ち着こう……落ち着くんだ……)


 自分に言い聞かせながら、私は考える。

 どうすれば、ここから抜け出せるのか。


(10階までは行けたよね……)


 でも、法則性とかはどうも無いっぽい。

 動き回れば周囲の全体の構造が分かる……かな?

 ロールプレイングゲームみたいに。


(うーん…………)


 腕を組んで首を捻ったその時だった。

 首筋に感じる、焦れたような妙な違和感。

 頭の後ろに感じる誰かの視線──。


「…………………」


 私は、そーっと振り返ってみる。

 その瞬間、ぞくり、と背筋に冷たい戦慄が奔った。

 視界の隅に微かに見えた周囲の人たちの中で明らかに異質な黒い影。

 それが人込みの向こうから「じーっ」と私の方を見ていた。

 只でさえ、どうしていいのか分からないのに、この上──。

 私は、いま一度黒い影がいた辺りを振り返る。

 さっき視界の隅に見えた黒い影はどこにもいない。


(………………)


 みぞおちの辺りから怖気だつような冷たい不安がじわじわと広がって来る。

 私は周囲を見回して大きく深呼吸。

 社員食堂から恐る恐る足を一歩踏み出すと──



 33階 財務支援統括グループ 財務経理部 経理部 経理一~四課



「おぉっ!」


 やったぁ! 戻れたぁ!

 経理四課だぁ!

 って──まあ、ここは最初にいた場所なわけで……。

 真っ暗な窓の外と冷たいぐらいに「しーん」と静まり返って物音ひとつ聞こえない無人のオフィス。

 うん。もう、ジタバタしても始まらないね、これは。

 手近なデスクのイスにどかっと腰を下ろすと、頭を掻いて「ふーむ」と唸る。


(……何がどうなってるの、これ?)


 目の前の経理四課は、明らかにいつもの経理四課だった。

 正真正銘の経理四課。

 パソコンもその傍の鉛筆立ても、ボタン部分が汚れた内線電話も全部いつも見ている、いつものそれ。

 何か違う物と言えば──

 私は腕時計の表示を見る。




「17時31分」




 ずっと変わる事のない時刻表示。

 頑ななまでに変わらないこの時刻。

 いや……


(いや、待てよ……)


 もしかして──

 次々と現れる季節も時刻もばらばらのオフィス。

 亡霊のような周囲の人たち、それに去年亡くなった斎藤さん。

 そして、止まったままの「17時31分」という時刻。

 つまり──

 私は、脳裏に浮かんだ考えに思わず身震いした。

 いま、私がいるのは会社の幻。




 会社の幽霊のようなものの中なんじゃないだろうか?




 そうだ、それなら辻褄が合う。

 それに「17時31分」と言えば「逢魔が時」じゃないか。

 おかしなことが起こると言う魔の時刻──私は、家に帰ろうとしたその瞬間、ここに迷い込んでしまった……という事なんじゃないんだろうか?

 誰もいないオフィス。

 真っ暗な窓の向こうで赤く点滅するビルの航空灯。

 鏡のように静まり返った周囲をいまいちど見渡して──


「──え?」


 私は思わず立ち上がった。

 誰もいないオフィス。

 その片隅に……




 いる。




 社員食堂で見た黒い影。

 真っ黒いシルエットは、よく見るとその輪郭から裾の長いドレスを着ていて、頭にレースのヴェールを被った女性。

 ドレスもヴェールも、そして、顔も。何もかも全て吸い込まれるように黒い女。

 その漆黒の女がデスクの列の向こう側から私の事を「じーっ」と見つめていた。


(…………………………)


 ざわざわと冷たい感触が背中から私の全身を包み込んでいく。

 と、次の瞬間──

 女がゆっくりと動き出した。

 滑るように滑らかに。

 来る。

 来る。

 来る。

 私に向かって来る!


「────っ!」


 私は、イスを蹴倒し、デスクの上のものをまき散らしながら泡を食って走り出す。

 わぁ! はぁ!

 もつれそうになる足を必死で前へ、前へと動かしながら肩越しに振り返ると──居並んだデスクの間を器用に縫って私の背後へと迫って来ていた。

 私は、イスをひっくり返し、キャビネットやデスクの上のものをまき散らしながら懸命に走る。


(出口! 出口!)


 IDカードを叩きつけ、ドアを引っぺがすように開けると中へ転がり込む。



 28階 事業推進グループ 事業推進本部 サスティナビリティー事業推進一~三課



 サスティナビリティー?

 28階?

 違う階だ、じゃあ、あの影も──。

 そう思って振り向くと、例の影が当たり前のように出口から入って来るところだった。

 身じろぎひとつすることなくまっすぐ迫って来る真っ黒な女の影。

 飛んでいるのかと思うような、滑るようなその身のこなし。


(……………っ!)


 私は、泳ぐように必死で走る。

 デスクの間を走り抜け、ホワイトボードを押しのけ、引っ張り──

 出来るだけ追いかけて来る真っ黒な女の障害物になるようにと思ってわざわざ狭い所を通ったり、物を落としたりしているけど──

 肩越しに振り返って思わず私は目を見張る。


(ええええええええぇぇぇ……)


 床の上の転がったイスも、

 通路にせり出したホワイトボードも、

 すーっとすり抜けて何事もないかのように件の影はこちらへと滑って来る。

 揺れるヴェールと俯き加減のシルエット。

 みぞおちの辺りに冷たい感触が満ちてきて、全身に悪寒が奔る。


「うわあああぁぁぁっ!!!!」


 もう、悲鳴を上げずにはいられない。

 私は、もつれる足を鼓舞してキャビネットの角を急角度で曲がり、


「ええと、ええと──」


 出口! 

 出口、出口!

 出口は──反対側っ?


(追い付かれる!)


 私は、咄嗟にすぐ傍のドアをこじ開ける。

 ドアの上部に書かれた「会議室3」の文字を尻目に中に入ると──



 21階 製造推進統括グループ 製造戦略本部 購買部 購買一課~五課



 背後をそっと振り返れば、当然のようにあの女の真っ黒な影。

 付かず離れず、ぴったりと、まるで私の事を追い込むかのように後を追って来る。

 どこをどうすればここから出られるかも分からないのに。


(あぁ、も、もう無理!)


 でも、もし、あの真っ黒な影に追い付かれたらどうなるか知れたもんじゃない。

 だから、走るしかない。

 そして、手近なドアをこじ開けては──



 34階 業務支援統括グループ 業務支援本部 広報部 広報課



 デスクの間を走り抜けて、間髪入れずにまた出口をくぐって──

 非常階段を上って──

 さらに、そこかしこのドアを開けて──



 27階 海外事業統括グループ 海外事業戦略部 海外営業企画部 海外営業企画一~五課


 17階 記念ホール


 35階 業務支援統括グループ 業務支援本部 内部統制部 内部統制一~四課


 20階──36階 社長室…………


 31階……19階……18階……


 32階……



 ドアを開ける度に次々に現れるオフィス。

 窓の外の天気も時間ももうよく分からない。

 明るかったり、暗かったり。

 雨だったり、晴れていたり、時たま雪が降ってみたり。

 人がたくさん居たり、居なかったり。

 同じところも何度か来た気がする。

 何枚ものドアを潜り抜け、デスクの間を走って、またドアを開けて。

 それでも──

 どこへ行っても、

 どこまで行っても、


「ま、まだいる!」


 女の影は、ずっと私に付いて来る。

 振り向けば必ずいるあの漆黒の影。

 床を舐めるように、身じろぎ一つすることなく女の影は私に迫って来る。

 はぁ! はぁ! はぁ!

 もう、足がもつれてしまって上手く走れない。

 それでも、最後の力を振り絞って私は走った。

 そして、手近なドアを開いた時だった。


「エレベーターだ!」


 どこの階か分からないけど現れたエレベーターホール。

 私は、力の限りボタンを連打。

 カチカチカチカチ!!


「早く!! 早く!! 早く!!」


 ドアをくぐってこちらへ向かって来る例の影が視界の隅にチラリと見える。


「早く早く早く早くっ!!!!」


 ポーンッ、と音がして到着すると飛び込むように乗り込んで「10階」のボタンを。

 そして──カチカチカチカチ!!!

 すかさず、「閉」のボタンを連打。


(早く閉まって!!)


 ポーン、と音がして扉が閉じる瞬間、女の真っ黒な影が扉の前を過って行った。


「やれやれ……」


 モーターの作動音と同時にエレベーターが下降して行く。

 デジタルの階数表示は、着々と10階へと向かっている。

 果たして10階に辿り着けるか……

 固唾を呑んで表示を見守っていると、暫くして──ポーンッ!

 三度目の正直!

 扉が開いてエレベーターから降りる。

 と──

 左右に居並んだたくさんのエレベーターの扉。

 そして、その先に見える自動改札。

 総合エントランス。


(本当に10階に着いた!)


 こうなれば、もう行くしかない。

 私は、走り出す。

 IDカードを手に自動改札へ。

 そして、ポーンッ──バタン!

 と、ゲートが開いて──



 33階 財務支援統括グループ 財務経理部 経理部 経理一~四課



(またか──)


 と思ったけど、なんだか様子が変だった。

 オフィスの中が明るくて……たくさんの人が、同僚たちが、上司が普通に働いていた。


「……あれ?」


(えーと……)


 さっき……って言うか、この前に来た時は窓の外が真っ暗だったような……。

 ひっきりなしにランプが明滅して呼び出し音が鳴っている内線。

 居並んだパソコンの画面とキーボードを叩く指先。

 いつもの経理四課。

 そう。

 いつもの──。

 窓を背に本部長と部長がいて……課長がいて……私たちの経理四課があって……。

 その時、私はある事に気が付いた。


(私のデスク……どこ?)


 島型に配置されたデスクの端、課長のデスクから見て左側の手前から三番目。

 私の席に違う人が座っている。


(えーと……)


 戸惑いながら周囲を見ていると隣の三課や二課にも知らない人や別の部署の人がチラホラ。

 それに、一課の課長も見た事ない人だ。

 首を捻りつつ、近くのキャビネットを何気なく見て、その上に置かれていた湯呑と写真立てに目が止まった。

 無地の青い大きな湯呑。


(私の湯呑?)


 に──


(これ……)


 写真に写っているのは──


(私……?)


 課長と並んで写る私の手には「永年勤続二十年」の表彰状。




 あぁ……




 私の脳裏にまざまざと蘇ってくる。

 そうだ、あの日……

 あの時──


「お先に──」


 ああぁぁ──

 あれ?

 床……

 …………床?

 ………………………。


『……青木さん? 青木さん!』


『青木さん!』


『おい! どした、どした?』


『あ、青木さんが! 青木さんが急に!』


『おぉ、おいおい、不用意に動かすな! 救急車だ!』


 ────救急車?


『こっちです。立ち上がった瞬間、急に倒れて……』


『青木さん、分かりますか? 青木さーん?』


 救急車……。

 ……病院?

 ────手術室?


『青木さん、ご家族の方こっちに向かってますからね!』 


『ガンバって下さい! もう少しで、ご家族の方見えますから!』


 ─────ご……家族?

 ──────。


『あなた!!!』


『父さん!!』


『お父さーん!!』


 ──────。


『あなた!! あなたぁ!! あなたぁっ!!!!』


『父さんっ!!! 父ぉさんっ!!!!』


『お父さぁぁんっ!!!!』 


 あ…………あぁ……

 ……家に……家に帰りたい……

 家に……あぁ……

 まだ…………

 か──




 ……………………




 そうだ。

 そうだった。

 いつの間にか傍に立っていたあの黒い影。

 差し出されたそのしなやかな手をそっと握って私は頷いた。

 そうだ。

 全部思い出した。

 あの日。

 そう、あの日の17時31分。

 私は会社で倒れて──



 ──死んだんだった。


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17時31分 生田英作 @Eisaku404

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