旅人のスケッチブック
@Artficial380
大きな桜の樹の下で
ある山の麓に、大きな古民家があった。
そこには人が住んでいて、空虚の縁側で夜風にあたりながら面白くなかった今日を振り返る。背後には机一つと畳の上に散乱した紙が靡いていた。
自分でもつまらないと投げ出す普通の作品に飽き飽きした人は、なんとなく頭上で光る北極星に
「話し相手がいればなぁ」
と呟いてみせた。星が気まぐれにそうか、というように瞬いたように目に映る。んなアホな、何光年と離れたそれが、外気も貫いていかなさそうなぼやきに気がつくはずもない。
応答するはずもない。
はぁ、と白い息を残して二の腕をこすりながら小さく欠伸をして、障子の敷居を跨いだ瞬間。爆風と一緒に障子が横を掠めて、部屋の壁に突撃していった。ばらばらと舞う書き損じと一緒に、眠気が吹っ飛んでしまった人は、恐る恐る背後に目をやった。普段から障子を閉めることすら気に留めていなかったが、それにしては景色が開きすぎていた。手入れのしていなかった毛先が金色に、根本が黒色のロングヘアーを顔の横に退けながら状況を把握しようとする。
縁側の先の小さな庭からは黙々と煙が立ち込めており、そこに何かが落ちてきた、それだけはわかる。
ゲホゲホと咳き込みながら煙を払い、正体を確かめに行く。もしも隕石でも落ちてきたのなら一部は町の博物館にでも寄贈して、残りはスケッチでもして研究してやろうと目論んだ。
だがそこにいたのは、若葉の髪色の麗しい人だった。無機物はそこに一切なく、土の汚れもないまっさらな肌と曇りのない桜色の瞳。一足先に、初夏が来てしまったようだ。
石程度を掴み取ろうとした手は行き場を失い、空を切ることもできず硬直してしまった。人と出会うなんて何年ぶりだろうか。向き合うものといえば紙と黒インクだけで、もう話し方もすっぽり忘れていた。
いや冷静になろう。障子をも吹っ飛ばすあの爆風の中、土に穴を開けるほども勢いで落ちてきたこの子が人なのか。羽もない、頭の上に輪っかもない。腕が複数あるわけでも、下半身が別の動物になってるわけでもない。本当に見た目が人の何かが、ファンタジーの物語のように空から無傷で落っこちてきた。
なぜだろう?先ほどのぼやきが言霊になったのか?
「あのぉ」
顎に手を当てて唸っていると、穴の中から少し身を乗り出して声をかてた。
「うおぉ日本語喋るんかい」
「喋りますよ 人間ですもの」
自分で人間だと言ったな今。
「人は空から落っこちてこない…と思う」
「でも落っこちてきたじゃないですか」
むふん、と瞳が煌めいた。それはもう子供の頃に手放したもので、随分と懐かしいものだった。光は瞳にうつる。
「そういうことじゃない とにかくこっちへおいでよ」
空をそっと睨み上げて、衛星を気にした。宇宙を漂うレンズが何を見ているのか、彼女ははっきりと知っていた。
風邪を引くよ。
その言葉で包み込んで、杞憂に終わりますようにと、消し去った。
それから幾年か。
「おーきーてーくださいっ!」
曙の朝。若葉髪をお団子にまとめて、朝ごはんに出す味噌汁の香りを漂わせた『桜木 笹』(桜のような色の瞳と、笹の葉ともとれる髪色と、星に願う七夕のように出会ったことから、こう名付けた)は、かけ布団をひっぺがした。まだ肌寒い空気に縮こまって、巻物になろうとする『クレエ・エトワール』の敷き布団を目一杯引っ張っていた。
「もう8時回ってます!」
「まだ8時じゃないか……あと2時間くらい…」
「朝ごはん! 出来てるんですよ!」
敷き布団を奪われまいと引っ張りだこしていたが、さっと部屋の隅に逃げ込んだ。だが、まだ気温の上がらない室温ならともかく、床はまだまだ冬仕様だ。眠気で熱った身体にはきつい物があったので戻ろうとしたら、既に笹に押し入れに仕舞われている所だった。
縁側から差す朝日に目を細めながら、手探りで暗いレンズの眼鏡を探す。指の腹が特別冷たい感触を知らせる。メガネ拭きで触れてしまったレンズを軽く磨き、ようやく目が開けるようになる。
「朝日は苦手だ 目に突き刺さる」
「私は好きですけどね 朝日」
笹がふふっと笑った。
「朝ごはん冷めちゃいますよ」
あの日の穴は埋め立てられて、誰も触れなかった。
今はそこに小さな桜の木がひとつ、自分の花びらを太陽に自慢していた。
二人の人間は、仲睦まじく暮らしている。
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