オーディション

はやて

第1話

 突然、目に映ったものを私は避けた。

それが梅の花びらだと気が付き、追いかけようと振り返った。

もう花は地面に落ちていた。春の訪れを告げる梅の花に心を躍らせつつも地面に落ちて土色に染まった花びらに汚さを感じた。


私は花を拾うことはできなかった。


住宅街の一角に残された果樹園の梅の花が風に乗り駅前のビルたちにも春が近いことを知らせていた。

 私は春の気配を少しも感じない寒さに苛立ちながら職場へと向かっていた。

「ホットコーヒーを一つ。」

通勤中に通るいくつものコンビニの中で一番職場から遠い店でコーヒーを買い、電車の中で飲み切るのが日課だ。

 コーヒーは出勤時間が毎日決まっていない私を仕事モードに切り替える道具だ。

電車内にだって、いかにも仕事ができそうなスーツの男が自慢げに缶コーヒーを飲んでいる広告が貼られているのだから、この習慣は間違っていないのだろう。

 私は一日の中で電車に乗って職場に行く時間が一番好きだ。

高校二年生で学校を中退し、水商売で生活をしている社会のレールから外れた自分が、社会の一員として認められている気になる時間だからだ。

朝早い時間に電車に乗るときは、女子高生が声高に話す恋愛話に聞き耳を立てて、見知らぬ女の彼氏に一緒になって怒りを覚え、夜には残業に疲れたサラリーマンに悲哀の目線を送ることで、社会の構成員に必死に擬態している自分がいる。


 五年前に家を飛び出したとき、私は自由になった。


 私を認知しなかった男に短い間愛された母。

その母の虐待からなんとしても逃げたかった。

私の体の痣が増えるたびに母への憎悪が母から愛された記憶を薄くしていった。

朝日がモヤを消すように母への愛が消えたとき、私は学校を辞め、母との縁を切った。

私は同級生の女の子たちみたいに放課後のパパ活で、学校の先生以上にお金を稼いでいた。

いわゆる大人が自分より稼ぎも少ないくせに偉そうに私に教育をすることに耐えられなかったし、ましてや教育といって殴られる意味が分からなかった。


 初めはパパ活だった。自分が高校生だとわかっているおっさん達はよほど危ない人でなければ性交渉を持ちかけてくることもなかったし、同級生の間で都合のいいパパを共有して一日一緒にニコニコすごしていれば数万円、運が良ければ十万円も貰えた。学校をやめてもパパ活さえあれば十分に一人で生きていけると思っていた。


 学校をやめてからパパからの返信が帰ってこなくなることが増えた。私が学校を辞めたことを他の女子高生から聞いたパパたちからみて私は無価値な女となった。

もともと女子高生という肩書きだけで、パパ活をしていた私は、ただの無教養な女となったことに気が付いた。


 私の処女は、たった二十万円で売れた。高校の同級生で処女である人は珍しかったし、自分が誰かに抱かれることでお金をもらえるなんて楽な商売だと楽観的だった。

私は勘違いをしていた。

体に開いた穴以上に心に開いた穴から、ひびが入りガラガラと崩れる何かを感じたその瞬間に、自分が無意識の内に人に奪わせまいと守っていたものの美しさを知り、拭いても磨いても取れない汚れを前に私は泣き喚いた。


 母親しかいない貧しい団地育ちの私が唯一大切にしてきた宝物はその日初めて会う男に台無しにされた。


初恋相手の顔はモヤのかかったようにしか思い出せないが、五年前に私を初めて抱いたやつの顔を思い出すときには、記憶のカメラのピントを正確に合わせて覗き込んでしまう。


 私に穴が開き空っぽになった日の思い出の世界にはいつも、ブランド品のバッグ一つでなくなる程度のお金欲しさに、自分が十七年育てた宝を渡す自分と、小汚いオッサンと、その横で泣いている今の私の三人がいる。そこには、確実に目の前に過去の私がいて、私が泣きながら訴える声が届かないはずがないのだが、何度も繰り返されるその世界の結末はいつも一緒だった。


 私は潔癖でもなければ、初めて抱かれた王子様と結婚したいと思うお姫様みたいなやつでもなかった。

ただ、自分の人生をかけた行いに対して他人が二十万という評価を与えたことで、自分の価値が規定されてしまったことで私は自分の過去や未来に二十万円以上の期待を持てなくなってしまった。

愛する人に自分の初めてを委ねるべきだという至極当たり前の文句は、社会の全てが敵に見える私たちにとって破るべき校則と同じようなものに感じられた。


 つまり、それは学校の窓に残った割られたガラス達、短くなった膝を隠していたはずのスカート、守られることの無い始業ベルと同じであった。

そして、守らなければ自分が痛い目を見るという結末までもが一緒であったと知った。


「俺もサービス受けている身だからあんまり偉そうには言えないけど、まだ若いんだからちゃんとした仕事についたほうがいいんじゃないの?」

「ありがとね。でも、お客さんみたいな素敵なおじ様を喜ばせる仕事も私好きなんだ。」

「レイナちゃんは口がうまいなあ。へっへへへ。」


 二十二歳になった私はデリバリーヘルスで自分の汚れた体に生活費を賄う程度の価値をつけてもらい働いている。

あの日空っぽになった私は、今はレイナという源氏名で呼ばれ主体性を無くした日々を送っている。

レイナという名で呼ばれている時間に、自分の気持ちや感情を語ることは一切ない。お金を貰うためだけにお客の喜びそうな台詞を言うだけのロボットだ。

でも、源氏名で呼ばれる生活も悪くない。私が裏切ってしまった自分と距離が置ける気がした。

私の中には常に加害者と被害者が共存しているのだ。生きるために生活を送ろうとする自分。何かを考える度に、自分を責めてくる過去の自分の声。悩み続ける毎日の中でいっそ自分の存在を消してしまおうかと何度も思った。

自分の一番の味方であるはずの自分を敵に回してしまった私は、私を辞めることで生きながらえた。源氏名は過去の自分からの隠れミノなのだ。


「はい。給料。」


黒服の男が事務所で薄茶色の封筒を手渡す。


「ありがとうございます。

 明日の出勤以降は来月の性病検査までしばらく休みます。」


「はいよ。でも、急にデリヘル辞めたりしないでくれよ。

 君、売り上げ良いんだからさ。」


「逆ですよ。私ここ辞めちゃったらどこ行ったらいいんですか。

 クビにしないでくださいよ。」


少し予定をあけて旅行にでも行こうと思った。これといって趣味も人付き合いもないから貯金はある。行先は沖縄かどこか暖かい場所がいい。

今朝、電車の広告に載っていた水着姿の女の子と南国のリゾートホテル、ありきたりな幸せをアピールする写真を見て、少し心が躍った。幸せが欲しいと思った自分に驚いた。


「レイナは休暇なんてとってどこいくのよ?」

カナは私より二つ年上の女だ。私がこの仕事を始めたときから、やたらと出勤日が被ることが多かったので、唯一仕事以外の事もお互い話し合う仲になっている。


「なんか旅行にでも行こうと思ってね。」


「何?彼氏できた?悪い男につかまったりしてないだろうね。前からずっと話しているけど、私たちがお金を持てるのは若いうちだけだからね。せっかく体を売って稼いだお金は自分以外に使っちゃだめよレイナ。」


カナは私のことを妹のようにかわいがっている。

カナと仲良くなったのは出勤日が重なっていたという理由だけではない。境遇が似ていた。彼女も母親から虐待を受けていた。もっとも彼女は父親からも虐待を受けていたので私よりも厳しい家庭環境で育ったのかもしれない。


カナは私なんかよりずっと偉い。私が向き合うことのできない過去よりつらいものとカナは戦い、前を向いている。彼女は汚れ切っていないのだ。


「他の嬢みたいに厚化粧なんかしちゃだめよレイナ。」


彼女は化粧や高級ブランド品で自分自身を覆ってしまうことを嫌った。他の風俗嬢が私たちに自分の買ったブランド品を散々自慢してきた後には必ず私に説教をした。


「あんな風に自分と向き合えなくなったら、自分をこのどん底から救えなくなるでしょ。私を救うヒーローはいつだって私なんだから自分を隠しちゃだめよ。」


周りを見ているとカナの言うことが正しいことは明らかだった。水商売というのは、大卒でもない若い女性でもかなりのお金を稼げてしまう。そこで稼いだお金を全部、自分を着飾るためのブランド品や、ホストクラブ通いなどに使ってしまう。これは、なにも自分の稼ぐ能力を周りに自慢するための行為ではないのだ。カナが言った通り、過去のトラウマから逃げようと自分から隠れ、別人になりすますための彼女らなりの必死の偽装工作だった。

 

 ただ、若さという期限付きの資本のせいで変装ができる時間は限られているのだ。期限がきた人は今まで散々逃げてきたトラウマの前で身ぐるみを剥され、強制的に自分と対峙することになる。そんな私たちには悲惨な最期しか待っていなかった。


 

 彼女が高卒認定試験の合格を嬉しそうに私に報告してきたのは去年の事だった。カナにとっては二回目の挑戦だった。彼女は中学卒業後から学校教育を受けていないので、高卒認定試験に受かるための努力は並大抵のものではなかったのだろうと思った。彼女は私と知り合ったころから、仕事がない日には家庭教師を雇い、通勤時間には高校生と同じ教科書を読んでいた。一度試験に落ちて、くじけそうになっていたが幸せになるためにはやるしかないんだと自分に言いきかせて毎日勉強していた。


「私ね、もう少しお金が溜まったら大学受験をして大学に行くの。そこで教員免許を取って学校の先生になるんだ。」


 私はカナが好きだったが、源氏名で生まれ変わらないと生きていけない弱い自分と彼女を度々比べてしまうのが苦しかった。

私のことを誰よりも理解しているカナは、私が向き合えない過去と私の弱さも見抜いていた。だからこそ、自分がお手本となって私にも前を向いてほしいと色々な方法で励ましてくれていることはわかっていた。


「大丈夫だよ、カナさん。電車の広告が楽しそうでね。私も珍しくウキウキしちゃって、こんなの久しぶりだから行ってみようかなって。」

どんな方法で励ましてもなかなか心から明るい表情をしない私の見せる笑顔にカナは驚きながらも喜んでいた。

「なんか今日のレイナ綺麗よ。旅行から帰ってきたらいっぱい話聞かせてね。」




 今月最後の出勤先は自宅だった。自宅へ向かう仕事の時は、いつも緊張する。ホテルでサービスをするときにはある程度の衛生環境が整っているし、何か身の危険を感じる客であった場合は、その部屋を出てしまえばホテル職員に助けを求めることが可能だ。ただ、自宅はどれだけ部屋が散らかっているかわからないし、何か危険なことが起きたときに助けを呼ぶのが遅れるケースが多い。


「達治くん、私に何かあったらすぐ来てね。」

「わかってますよ、レイナさん。」


 ドライバーの達治は風俗嬢を守る役目にはぴったりの強面でガタイの良い男だ。

我儘でちょっとしたことで機嫌が悪くなりドライバーに噛みつく風俗嬢が多い中で、私はおとなしい性格なので達治にも気に入られていた。


「こっから三十分くらいかかりますよ。そういえば、レイナさん聞きましたよ。しばらく休暇取るんですって?彼氏でもできたんですか、もう妬いちゃうなあ。」


 達治は彼氏面をするように私をからかった。


「バカ。旅行に行くだけです。彼氏の一人もできずに申し訳ありませんね。」

達治は私をからかうが、ドライバーは最も風俗嬢と付き合いが多い分、私たちがどういう人間であるのか知り尽くしているから、絶対に手を出したりしないことは知っている。


「今から行くお客さんね、僕が電話対応したけどなんか若そうでしたよ。」


「そうなの。部屋がきれいで、不潔じゃなければなんでもいいわよ。」


「レイナさん、それはちょっと贅沢すぎなんじゃないですか。」


 事実、自宅に呼ばれて行ったときに客の部屋がお世辞にも綺麗だったことはなかった。

でも、デリヘルを自宅に呼ぶ客にも良いところもある。自宅に性風俗を呼ぶ人というのは、生活習慣に性風俗を呼ぶことが入っているため、リピート率が高いのだ。不特定多数の客と商売するのはやはり危険な客と出会う確率が増えるため、顔のしれた自分をリピートして指名してくれる特定の客を持ちたいというのが私たちの気持ちなのだ。

だから、今から行く客も、人柄がよさそうならば張り切ってサービスをしてリピートにしてしまわなければならない。





「私、風俗あがろうかな。」


思ってもいない台詞が、自分の口からこぼれた。


「まじすか、レイナさん。」


 達治はすっかり動揺していた。他の風俗嬢は、かまってほしさに頻繁に、私辞めようかな、なんて言ってくるがレイナはそういうタイプでないことを知っていた。


「ふふふ。冗談。私に他の事なんかできっこないよ。」


 達治の動揺する様子を見て思わずからかったように繕ってみたが、心の中では自分がなぜそんなことを言ったのかわからず動揺していた。




「ねえ、達治くん、タバコちょうだいよ。」


「珍しいっすねレイナさん。出勤前はいやっていつも言ってたのに。」


「一吸いするだけだから。ガムも持ってるでしょ?」


ガムなんか噛んだところで、たばこの匂いは客にはごまかせないことは知っていた。


「客に怒られても知らないですよ。」


達治は信号待ちの間に助手席に置いてある自分のカバンから注文されたものを探した。ドライバーは単に嬢の送迎やボディガードをするだけではなく、機嫌取りもその仕事の内なのだ。


「そんなね、風俗嬢に説教するような人は、たばこ以外のところでも叱られちゃうんだから、小さいことで怯えても無駄なのよ。」


「ひええ。やっぱお姉さん方は大変なんすねえ。お、レイナさんラッキーですね。あと一本でした。」


達治が煙草を箱ごとレイナに渡した。


「達治くんのがなくなっちゃったね。ごめんね。」


「いいっすよ、吸いたくなったらレイナさん待っている間に買ってきますから。」




別にタバコを吸いたかったわけではないが、いつもと違うことをしたくなった。煙草に火をつけて、深く煙草の煙を吸いこんだ。達治が開けた後部座席の窓から入る身に凍えるような風で冷えた唇をタバコが暖める。喉まで熱くなるのを感じて煙を鼻からふかした。


「絵になりますね。レイナさん。」


パッケージの裏を見た。子供が見たら泣き出しそうなくらいの煙草の悪さを訴える文章が目に入った。


「あたし、タバコはほんとにやめるわ。」


達治は予約時間ちょうどに私をアパートの前に降ろした。

 

「じゃあ、二時間後に迎えに来ますから。」






インターホンを鳴らした。

「あっちょっとまってください、か、鍵開けます。」

慣れてなさそうな声だ。もしかしたら初めて呼ぶ人かもしれないなと思った。鍵が開いて、大学生らしき若い顔の整った男が顔を出した。どう考えても風俗など縁のなさそうな青年が出てきたことに一瞬驚きつつも、簡単な注意事項と前払いの料金の受け取りを済ませた。


「今日は何したい?」


慣れてなさそうな客にはなるべく優しくするのがいいとわかっているので、とびきりの天使を演じた。

「じ、じつは俺、お姉さんを呼んだわけじゃなくて。」




この青年は私の客ではなかった。なんでも彼の友達が彼の家に集まり大学の卒業祝いをしていたところしたたかに酔いのまわった彼らが、仲間内でイケメンなのに唯一女性経験のない彼を遊びの標的にしたというわけだ。


「ほんと失礼なことして申し訳ないです。」

青年は心から反省している様子で頭を下げてきた。


「ちょっとびっくりしたけどいいよ。こっちはお金もいただけちゃうわけだし。でも外は寒いから迎えが来るまではおいだしたりしないでくれる?」


なんのサービスをしなくても二時間分の料金を受け取れるのは私にとっては願ったりかなったりだ。






 二時間がたってしまうのはあっという間だった。私は自分の連絡先まではまだしも、自分の本名まで彼に伝えてしまった。彼の名前は松田雄二。歳は私と同じ二十二歳。今年度で大学を卒業して来年からは社会人になるという。大学では読書が好きという理由で文学部に入り、教員免許と文学部の学位を取得したというわけだ。彼がどちらかの親から虐待を受けていたことを私は感じ取った。直接聞いたわけではないがわかるのだ。二人が次ののネタを探す間もないほど弾んでいた会話を幾度も詰まらせた自分の生い立ちの話。彼はついに決定的な台詞を言わなかったが、精神的か肉体的かのかなり深い傷を親によって負ったことは確かであった。


「僕の物語は悲劇なんです。周りの友達には決して話さないんですけどね。でも、僕の美しいと感じる作品も悲劇が多いんです。」







私は雄二に恋をしてしまった。いつもは一秒を数える心臓の鼓動が狂ってしまったせいだろうか、二人が話し合っていた時間が一瞬にも永遠にも感じられた。なぜこんなにも簡単にこの青年を愛してしまったのか自分でもわからなかった。ただ、別れる間際に私は彼に自分の本名を伝えたのだ。自分が生きていることを愛している人に認めてほしかった。愛する人に認められるならば、私は源氏名を捨てることができる気がした。


自分の悲劇の物語も美しいものにしてほしかった。


達治の迎えの車に乗りこんで、事務所までの帰り道は渋滞にはまった。いつもなら、仕事終わりで多少イラつくはずなのだが、夜道に光る車のテールランプたちにみとれてしまった。


「レイナさん。お疲れ様です。煙草新しいやつ買ってきましたよ。」

達治は二時間の待ち時間で近くのコンビニで買ってきた煙草の箱を後部座席にちらつかせた。


「聞いてなかった?あたしタバコ辞めたのよ。」


「ははは、やっぱ今日レイナさんちょっと変っすよ。」







 翌日になって、雄二から返信が来た。夢か現かわからぬ幻想であった二時間はやはり現実であった。

その日から休暇であったが、旅行の予定はいれなかった。

まずは、仕事に使う濃いリップなどの化粧品の類やカナに叱られそうなブランド品の服やバッグ、アクセサリーは全て捨てた。もう自分を隠すことはしない。私には自分を雄二に見せる必要があるのだ。もし、雄二でさえも私という作品の魅力が感じられなかったら私はこの悲劇に終止符を打とうと決めた。別に恋した男に気に入られなかった悲しさで死ぬつもりはない。私は二時間話しただけの男を自分の一部と思うほどに愛しているのだ。雄二の評価は私の評価なのだ。


 私は、雄二との恋愛を自分にとっての最終オーディションに決めた。



三回のデートはカフェで時間も忘れて雄二の好きな小説、友達の話、そして時間は短かったかもしれないが私の過去の話もした。私は雄二のありのままが好きだと確信したし、雄二もそうであってほしいと心から願った。

四回目のデートで私は雄二の初めての女になった。私は処女のように泣いた。私にとっても雄二が初めての男だったのだ。

「私はあなたを愛している。これからも一緒にいたい。」

私は雄二にもそう告げた。


 雄二と付き合い始めてから、止まっていた私の人生が動き始めた。今まで色を失っていた景色が急に色づいた。

私は、自分の体を売って稼いだ貯金を使って本当の意味での第二の人生を歩もうと決心した。



「カナ。私風俗あがるね。あなたのおかげで私前向けた。

私も大学行くよ。ありがとう。」


 カナは電話越しに泣いていた。ただ、これから会えなくなるかもしれない親友との別れの悲しさではなく、レイナが幸せに向かって歩き始めたことがたまらなく嬉しかったのだ。


 来月から雄二と私は同棲することになった。社会人になる雄二を邪魔しないという約束で私は雄二のアパートで高卒認定試験の勉強をすることにした。

長いこと独りで過ごしていたこのアパートともお別れだ。

荷物整理を済ませて段ボールを四箱ほど狭い廊下に積んだ。これだけ重労働をしたのだし、今日の夕飯は楽をしてコンビニの弁当を買いに行くことにした。


インターホンが鳴った。雄二がバイト帰りにアパートによると言っていたので、私は心躍らせながら玄関のカギを開けた。

私がドアを開けるよりも先にドアが勢いよく開いた。







 雄二ではない男が立っていた。私はこの男を知っていた。私の常連客でストーカー化した男なのだ。店を出入り禁止にし、引っ越し、電話番号の変更を済ませた後、長い間怪しい連絡もないので、すっかり警戒を解いてしまっていた。






 「レイナちゃん。なんであんな男なんかと。」






 気が付くと私は倒れていた。自分の腹にナイフが刺さっていることに気が付いたが、もう動けなかった。





 私を刺した男は何かぶつぶつと話しながら私の部屋を後にした。

玄関先からアパートの外に植えられた満開の梅が見えた。

雄二に会うまでは気にも留めていなかったアパートの前の空き地に植えられた大きな梅は部屋の前の廊下に綺麗な春の絨毯を敷いているようだった。

私の傷口から出た温かい血が梅の花ビラを一つ、また一つと真っ赤に染めていった。私の色で染まった花を私は綺麗だと思った。

身体もだんだん冷たくなってきたが、ようやく春が来たのだと涙が溢れてきた。


 今年は特に長い冬だった気がする。私は、薄れゆく意識の中ではっきりと生きたいと思った。




 涙でぼやける春の景色に瞼がゆっくりと幕を閉じた。


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オーディション はやて @hayate123

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