序①
咳が鳴った。
「おい、大丈夫か?」
「いや…大丈夫そうだ。煙草の吸いすぎだと思う」
煙草で肺炎にになるほども吸っていないはずだ。しかしなぜか自分は煙草の吸いすぎだと感じてはいる。馬鹿らしい。客観的事実がそこに存在していないのに感じるなどと言うことは、SNSにいる馬鹿の叫びだけでいい。ということはわかっている。しかしなんとなく言ってしまうのだ。こう言う現象が一番恐ろしいということは、アリス自身も、隣に座っているレイルも諒解していた。
「今日は遂に待った大仕事の日だ。お前が一番乗ってた癖に風邪でも引かれたら俺は困る。そうだろ、アリス?」
しばし沈黙が流れた。
アリスは首肯すると、咳止めの為うがいをした。アパートの一室なので洗面所に行くのは簡単である。
「レイル、そこの文机に置いてあるのが間取りだよ。よく読んでくれよ。笑えるだろ、こんな間取り…」
洗面所から声が上がった。凛とした声だった。レイルは間取り図を手に取った。しばし沈黙して眺めていたが、これだけで気持ち悪くなるような間取り図だった。友人の建築学科の奴に見せれば大爆笑に違いない。
「面白いだろ?しかも、こいつには結果だけしか存在しない」
「結果というと?」
突然の意味不明な言葉に即座に言葉を返した。
「因果関係の話だよ。建てられた年月、建てた人間の名前、税は取られているのか等、館があった原因となり得るものが全く存在しないんだよ。ある日突然、秦と佛願、双方の名家の別荘として使われ始め、周りの人間から恐虫館と呼ばれ始めたことしかわからない」
「ある意味…海の民みたいなものか」
「ああ。現実から滲み出てきたようなものという意味で言えば」
「なるほど…全ての現実は過程から成り立つという原則が崩れるわけだな…」
「そういうことだと思うが、難しいね。哲学的な問いは嫌いだよ」
自分で言っておきながら、それを否定し、アリスはそっと笑った。
「そこのルービック・キューブ…鞄に入れてくれるかい?」
レイルは無視した。某間取り図、遺産相続ゲームのルール、畳み刀、睡眠薬の入った解熱剤の袋。アリスの咳止め、ルービック・キューブ、数冊のミステリ本。天然水のペットボトル数本、ラジオ、着替え…。これら全てを持って行くのは割とだるそうだが、本人は全く気にしていない。レイルはこれを見て苦笑した。ルービック・キューブをアリスは笑いながら手に取ると、ガチャガチャと音を立てて回した。揃ってはいないので、音を立てることが目的なのは容易に読み取ることができる。
「本当に部外者は入ってもいいんだな?」
「ああ。ルールには部外者について書いていない」
「よし…じゃあ次は睡眠薬は?」
「僕の風邪薬に紛れ込ます。漢方薬も大量に入れてあるから探そうと思っても見つからないだろう。印のキズは知らないとわからないはずだし、あくまで保険だ。自分で飲むことも可能だ」
アリスはパンパンと薬入れを叩いた。これでよし。
「お次は占い道具だ。こいつはタロット、手袋、ウィジャ盤。これで西洋の占いには対応できるし、他にも思わせぶりなのを厳選して持ってきてやった」
護符やら何やらを大量にぶら下げ、アリスはそれをじゃらつかせた。
「これで大丈夫そうか?」
警察が常駐でもしていない限りは可能だ、とアリスは言った。
「ルール上無理だがな」
遺産相続をゲームにし、厳格なルールを定める未亡人。まるでミステリじゃないか…とレイルは思った。アリスによると、未亡人はパラノイアなどを患い、数年間も自室に篭りっきりだという。しかしレイルはそんな未亡人を哀れとは思わなかった。自分のカモとしては考えていたが。大量の現金を持つ名家が誇る未亡人。そんな人間が、自分のような詐欺師に騙されたら滑稽だろう…。しかもその詐欺は詐欺とは気付かれず、時代の流れに乗って抹殺されるのだ。これほど面白いことは、レイルとアリスには存在しなかった。
「場所は恐虫館。本名、S県S町秦家佛願家合同別荘。ここから二時間」
不確定要素は一つだけ、とアリスは続けた。
「君はこの館を海の民みたいだと言ったね」
レイルは首肯した。
「同じように、歴史から滲み出てきたような、本物の天才が参加者にいるんだ。ガウスやゲーデルに並ぶ大天才が」
そう言って、彼女がまとめた参加者欄の一人を指さした。そこには、
「高士火凛 22歳」
と書かれていた。この一文が、アリスをなぜここまで驚かせるのか。レイルにはまだ理解できなかった。レイルには、そんな天才が日本にいて、自分たちと近い年齢だということを知ることしかできなかった。
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