【第30話】記憶の在り処

 自室から出てきた井ノ森は、スウェットにハーフパンツといったラフな格好で、すらりと伸びた脚は黒のタイツに覆われている。元々あまり肌を出したがるタイプでもないのだが、今日に限っては異性に対する警戒の意図もあるのだろう。


 眼鏡越しにすっと覗いた眼差しは、

 ソファに居座る居候と目が合うや否や、ペッ、と唾棄だきするように細くなる。


「あのお嬢サマは、他人のユメとか理想とかを覗き見るためだけにゲームやってる生粋の変態。そんなお嬢サマにそこの浮浪者が貢げるモノなんて、それくらいしかない」


 渡鳥の収集癖──即ち『ユメ狩り』の噂はその界隈では有名な話で、それは若くして総てを持ち得たお嬢様の道楽か何かだろう、というのが大方の見解だった。


 それ故に腑に落ちた様子で、櫃辻は腕を組んでふんふんと頷いた。


「そーいえば、お嬢様とゲームで戦ってユメを盗られた人は無気力になって超ダメダメになる──って、そんな噂もあったっけ。じゃあ、今のポッポ君もそのせいで?」

「です。まさか私も、ここまで腑抜けてしまうとは思ってもみませんでしたがねー」

「どうせ俺はモブでダメダメだよ……」


 波止場自身、自分がゲームで〝何〟を盗られたのかは聞いて理解していた。

 だがたとえ〝それ〟を奪われたところで、波止場の心には喪失感などは皆無だった。

 

 だからこそ波止場は盗られたモノに頓着しなかったわけだが、実はその無感動こそが、渡鳥によって負わされた敗北の後遺症だったようで……つまりどうあっても波止場はこの伽藍堂がらんどうの心を占める虚無感を自覚することはないし、心を痛めることもなかった。


「──ま、そんなことはどうだっていいのよ」

 

 と、井ノ森は一蹴する。


 彼女は何もそんな状態の波止場をいとうために、昨晩から籠りきりだった部屋を出たわけではないのだ。彼女の関心はもっと別のところにあった。


「あんた、新世界運営委員会に追われてるんだって?」


 井ノ森はソファに座るでもなく、波止場を横から見下ろす格好でそう訊いた。

 静かながらもすっと通る綺麗な声だ。

 思えば、彼女が喋るのをちゃんと訊いたのはこれが初めてかもしれない。

 波止場は少し緊張した面持ちになって答える。


「……そう、らしいね。俺にもなんでかさっぱりだけど」


 半分本当で、半分は嘘だった。


 新世界運営委員会なる者たちが波止場を追う理由は、渡鳥曰く──彼が〝世界の終わりを知る者〟だからだ。だが、そんな世迷言を彼女たちに言ったところで信じてもらえるとは思えないし、それが事実なら、やはり教えることなどできはしない。


 そもそもとして、

 波止場はなぜ自分がそんな立場におかれているのかも理解していないのだ。

 過去の記憶が戻ればあるいは……その程度の期待しか見込めないだろう。


「理由も解らずに追われてる奴なんて、信用できないよね」

「元々信用してない」


 それはそうだ。

 はばかりのない井ノ森の返事に、波止場は思わず苦笑する。


「──でも、理由には心当たりある」


 続いた井ノ森の一言には、えっ、と誰もが驚かされた。


「ノモリン、何か知ってるの?」

「連中は、この街で今とあるモノを探してる。……あくまで噂だけど」

「そーいえば、それっぽいこと言ってた気がするけど。それって?」

「……詳しくは知らない。あたしが聞いたのは、それがこのパンドラを揺るがす可能性を秘めてるってことと、それが人に投与インストール可能なEPだってこと。そしてそれが、


 ──〝エルピスコード〟って名前で呼ばれてる、ってことだけ」


「……!」


 不意に、井ノ森は波止場の目を覗き込むように顔を近付けた。

 雪霜のようなまつ毛が被った切れ長の瞳が、その価値を値踏みする鑑定士の如き眼差しで問うてくる。


「言いたいこと、解る? あたしはそのエルピスコードを、あんたが持ってるんじゃないかって疑ってる。だから、連中もあんたを狙った。筋は通ってる」


「……俺はそんなモノ持ってないよ。目覚めたときから記憶も何も残っちゃいなかったんだ。それに、そんな怪しげなモノも俺の頭には入ってない……はずだ」

「エルピスコードが在るとすれば、それは《KOSM‐OS》のもっと深い部分。あたしなら、あんたがいま巻き込まれてる理不尽の正体を、突き止められるかもしれない」

「……俺のこと、無視するって言ってなかった?」

「無視できなくなった。それじゃ不満?」


 これまで煩わしい余所者としか扱ってこなかった彼女が、この気の変わりよう。何が彼女の興味をここまで惹き付けたのか波止場には知る由もなかったが、答えも待たずに身をひるがえして自室へと戻っていく井ノ森の背中を見ては、断りようもなく。


「──きて。あんたの頭を開いてあげる」

 

 波止場は肩におぶったツキウサギと共に、隣に座る櫃辻と顔を見合わせる。


「ほらね、言ったでしょ。二人なら仲良くなれるって」


 なぜかいい笑顔でサムズアップする櫃辻を前に、波止場は肩を竦めて立ち上がった。



 # # #



 八畳ほどのそこそこ広いはずのスペースは、ジャンクめいた機械類が乱雑に詰め込まれた押し入れと化していた。

 

 彼女にしてみればそれは意味のある配置、整頓の結果ではあったものの、アナログな機器やら配線やらでごちゃごちゃした内装は、SF映画に出てくるコックピットのようである。あるいはハッカーの秘密基地だ。


「そこ、座って」

 

 モニター群が放つ淡いブルーライトの明かりに照らされた、リクライニング式の椅子を指して、井ノ森は診察室で患者を待つ医者のような居住まいで波止場を迎え入れた。


「今から改造手術でも始まるのかな?」

「……《KOSM‐OS》は個人情報の集積端末。IDも、生体情報も、その人がこれまでに積み上げてきた記録ログが無数に堆積してる。だから常時ネットに繋がりっぱなしの個人を保護するために、《KOSM‐OS》には幾重にもプロテクトが施されてる。だから──」


「ちょっ、何を……!」


 ビクッ、と波止場の身体が跳ねた。

 波止場が椅子に腰を下ろした途端、井ノ森はコンソールと繋がれたケーブルの先端を、彼の首の回路図形ダイアグラムにブスリ、と挿したのだ。


「外部から頭に接続するなら、これが手っ取り早い」


 波止場は不安げな面持ちで、近くに立った見物人たちを見る。

 まるで保護者のように横に連れ添った櫃辻とツキウサギは、共に興味津々といった様子でそれを見守っていた。 


「じゃ、開くわよ。抵抗しなければ、何も起きないから」

「……何か起こる可能性はあるんだ……」


 井ノ森は答えない。

 

 机の表面に投影されたキーボードを叩くと、据え置き型の表示窓ディスプレイに開示された情報の群が、次々に展開されていく。


 椅子に座ったまま、表示窓ディスプレイに表示された内容を読み解こうとする波止場だったが、専門言語で暗号化された個人ログの群は到底素人に判読できるものではなく、井ノ森は複数の表示窓ディスプレイを一度に操りながらも、《KOSM‐OS》の深奥へと潜っていく。

 

 所謂、開発者モードによる深部の閲覧だ。

 

 こうなってしまえば波止場はもはや丸裸にされたも同然で、波止場自身の個人情報パーソナルデータから本人ですら窺い知ることのできない設計図ソースコードまでもがつまびらかにされていく。

 

 そこで波止場は、井ノ森が怪訝けげんそうに顔をしかめたのに気が付いた。


「……なんか悪いことでも書いてあった?」

「あんたの《KOSM‐OS》──あちこちにエラーが出てる。メモリの内部はスカスカの癖に、やたらとCPUに負荷がかかってるのよ。本来なら諸症状が不調の再現として人体にフィードバックされてるはずだけど……身体の方に何か異常ない?」

「いや、特には……」


 記憶がないのが異常と言えば異常だったが、それは彼女も承知のはずだった。


「それがまず一つ目の異常ね。今後はEPの投与インストールも控えた方がいいわ。こんなエラーまみれの状態で〝拡張〟なんてしたら、データがどう変質するかも予測できない」


 それだけ言って、井ノ森は再び《KOSM‐OS》の深奥へと潜っていく。

 黙然と作業に没頭する彼女をよそに、波止場は櫃辻とアイコンタクトを交わし合う。


 ──〝使っちゃったよ、EP〟

 ──〝使っちゃったね、EP〟


 とりあえずこのことは一旦黙っておこう、と二人は頷き合う。


 昼間自分を襲ったエラーは偶然ではなかったに違いない。一体過去にどんな悪行を積めばこうも不運ばかりを選んで抱えることができるのか。波止場は過去の自分が遺していったであろう負の遺産の数々に、いい加減うんざりしていた。


「ねぇ、ノモリン。そんな感じでポッポ君の記憶喪失の原因とかも解ったりしない?」


 ついでとばかりに友人の背に声をかけたのは櫃辻だ。

 特に確信があったわけでもなく、ほんの興味で訊ねただけだったのだが、


「そんなの、結論出てる。障害による喪失や破損じゃないのなら──」


 井ノ森から返ってきた答えは想像以上に核心に迫ったもので……

 それは、まさにこれまでの疑問を総て解き明かす〝答え〟そのものだった。


「──あんたの〝記憶〟は、以外にない」

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