【第11話】不運に憑かれた少年

 欄干から身を乗り出した櫃辻は、バスの屋根へと降り立った波止場の姿を目撃する。波止場を乗せたバスは歩道橋の下を潜って、そのまま車道を走り去っていく。

 

 波止場からは、歩道橋の上で立ち尽くす櫃辻の姿が見えた。

 

 彼を追って数機の綿毛が飛んでくるが、綿毛との距離はぐんぐん開いていき、やがて角を曲がったところで、櫃辻の姿はビルに隠れて見えなくなった。


「……ッ、ふぅ……上手くいった。案外やれるもんだな……もう、二度とやらないけど」


 そううそぶいてみたものの、冷静になって初めてどれだけ危険な真似をしたのかと戦慄する。

 大量の脳内物質が脳細胞の隅々にまで駆け巡っているのが、自分でもよく解った。


 波止場は時計を見る。

 ゲーム終了まで、あと五分だ。

 櫃辻の追跡はこれで完全に振り切った。勝利は目前。そう安心しきった矢先──


「……ハハ、嘘でしょ……」


 置き去りにしたはずの陰から、宙を蹴って、跳び出した人影がある。

 改めて言うまでもない。櫃辻だ。櫃辻は今、宙に浮いた綿花製の雲を踏み、踏みつけ、地上を往くこちらを追って、宙を跳んできていたのだ。



「──イイね、イイよ。ホント、ポッポ君ってさあ! 絶対櫃辻の彼氏にしちゃるッ!」



 櫃辻は《#気まま羊雲クリック・パフ》を内包したネイルを発射し、開花クラック開花クラックを繰り返し、その度に宙には綿花のエアバッグが花開き、それを踏んだ櫃辻を前へ前へと弾き出している。

 

 波止場と櫃辻の距離は、もうあと五メートルにも満たない距離にまで縮んでいた。


 櫃辻は身体を宙に置いたまま、「」の形に指を構え、波止場へとカメラを向ける。

 撮影箇所ヒットポイントは胸と左の手首。それを直接撮りにくる動きだ。

 

 波止場は身を捻って撮影箇所ヒットポイントを死角の内側へと隠そうとする──が、そのときバスが進路を変えた。


「……!」


 波止場は不意の遠心力に引っ張られてよろめき、屋根の上に尻もちをついて転んでしまう。その直後、櫃辻と共にフラッシュの光が飛び込んできて、光から視界と胸を庇うように構えた左手の撮影箇所ヒットポイントが──ガシャン、と砕けた。


 ……残りは一つ。


「──次で、ラスト!」


 仰向けになった波止場の許に大股で歩いてきた櫃辻は、波止場に跨る格好で腰を下ろした。この狭いバスの屋根の上でなお、さらに退路を断つために、だ。


「……っ、櫃辻ちゃん……これは、えっと……暴力反対」

「……ぁ、はぁ……逃げたかったら、逃げてもいいよ? 櫃辻は、動かないから」


 ジッパーを大きく開いたパーカーワンピ、その裾から伸びた肉付きのいい太ももが左右への逃げ道を塞いでいる。視線を下げれば裾の陰になった部分が見えてしまいそうだ。

 

 頬を上気させ、呼吸の度に上下する彼女の腰つきは危うい情欲を掻き立てる。

 汗の流れ落ちる胸元からへそにかけてのラインに、つい、目がいってしまう。


「あはっ……逃げないなら、これで終わり。なんてフラグは……もう立てないよ」


 櫃辻はマウントポジションを確保したまま、跨った波止場の胸元に照準を向けた。


「フォーカス──」


 オン、と──櫃辻がシャッターの引き金を引き絞る、その寸前──櫃辻のシャッターに先んじて、交差する二人の視線上でフラッシュが一つ瞬いた。


「フォーカスオン!」

「んうッ……⁉」


 下から上へと見上げるように瞬いた光は、波止場が構えたフラッシュの光だった。

 

 やり方はツキウサギが見せてくれた。そのカメラが自分の《KOSM‐OS》にも搭載されていることも確認済みだ。あとは起動キーを口にして、シャッターを切るだけだった。

 

 突然の閃光に意表を突かれた櫃辻は、フラッシュに目が眩み、体勢を崩した。その隙に波止場は彼女の股下から脱出する──だが、それが不運の引き金となった。


「あっ」


 不意に、車体が傾いた。バスが坂に入ったのだ。ただそれだけのことだったが、タイミングが悪かった。丁度身体を浮かせたばかりだった櫃辻は、首根っこを後ろに引かれるようによろめき、屋根の上から滑り落ちた。

 あっ、と──それ以上の言葉は続かなかった。

 

 後続には等速で突っ込んでくる車の連なり。この状況でバスから落ちたらどうなるか、などと連想するまでもなく、波止場の身体は無意識のうちに動いていた。


「────!」


 身体ごと腕を伸ばす。

 自分自身を遠くへと放り投げるように、後先は考えない。

 思考と視界が一瞬白んだ。

 衝撃と感触の連続すらも遠く、正否の実感は白昼夢のようで──


「ナイスキャッチです、波止場様」


 その声は、波止場の背後から聞こえたものだった。

 和装のバニー衣装に身を包んだ彼女の姿はバスの上にあり、屋根から上半身を投げ出した格好の波止場の腰を、引っ張り上げるようにして支えていたのだ。

 

 窮地を救ってくれたのは、ツキウサギだった。

 

 そして波止場が伸ばした手もまた、バスから転落しかけた櫃辻の腕を掴んでいた。

 

 ……間一髪。ツキウサギの支えがなければ今頃は、波止場も櫃辻と一緒に道路に転がっていたに違いない。そんな最悪な想像をはたして彼が口に出していたかどうか。


「まさか。私たち《NAV.bit》が見ている限り、そんなことにはなりませんよ」

「……確かに、余計なお世話だったかな」


 波止場は腕の先に繋がれた櫃辻の背中を覗き込んで、苦笑する。

 櫃辻の背中、そこに──「んむむーっ!」と必死な顔をした毛玉ウサギのむーとんが、主の身体をその小さな体躯で支えているのが見えたからだ。

 

 電脳の天使とやらは確かに、自分たちのことを見守ってくれていたらしい。



 # # #



「……ありがと、ポッポ君。今のは本気で死んだかと思ったよ。むーとんもありがとね」

「そうならなくてよかったよ、ホントさ」

 

 波止場は、櫃辻をバスの上に引き上げたところでようやく一息ついた。

 バスは屋根上の騒ぎには一切足を止めることなく、今もまだ平然と道なりを走っている。

 櫃辻が膝に載せた毛玉ウサギを撫でてやっている傍ら、表示窓ディスプレイを出し、時計を見る。


 あと一二〇秒。

 それでこの〝かくれんぼ〟も終わる。


「……で、これからどうしよう? まさかこの流れで俺のこと撮ったりはしない、よね?」

「そんな寒いことしないよ。そんなカッコ悪いとこ、子羊たちに見せられない──」


 爽やかに顔を上げた櫃辻は、そこでふと、何か信じられないものでも見たような顔で固まった。

 さらには波止場の背後に目をやって、あはっ、と噴き出したのだ。


「──でも。ポッポ君がツイてないのは、櫃辻のせいじゃないよね」


 含みのある櫃辻の視線。一体何が……と、波止場は後ろを振り返った。

 

 バスの進行方向には橋が架かっている。六號第四区から隣の区へと架かる、河越えの連絡橋だ。そしてその橋の中ほどに、『KEEP OUT』と書かれた帯状の壁が聳え立っていた。

 それは、半径一キロ──移動可能範囲の限界を示す円の外縁だった。


「……勘弁してくれ……」


「それじゃあお先、ポッポ君。ゲームはゲームってことで、悪く思わないでね。

 ──あ、そのバス無人運転だから、途中で止まってくれるとかは期待しない方がいいよー!」


 あっという間。櫃辻は宙に取り出した《#気まま羊雲クリック・パフ》に掴まって、バスを正面に蹴飛ばすように途中下車を完了していた。


 バスの屋根に不運な少年を取り残したまま、だ。


「んはは。エリア外に出たらその時点で敗北。まさか忘れてないですよね、波止場様」

「……憶えてるよ。もう関係ないと思ってたけど」


 ウイニングランのつもりが、いつの間にやら終着駅が敗北の二文字に変わってる。

 最悪だ、と己の不運を嘆きながらも、波止場は橋と交差して流れる大きな河を見やった。


 バスは左車線に寄っている。バスから橋の端までの距離は何メートルだ? 河までの高さは? 橋の下は安全か……などと逡巡している間にも、バスはゴールテープを目指して突っ込んでいく。

 そのゴールテープを切ったが最後、波止場の負けが確定する。

 

 残り時間は六〇秒。

 到達までの猶予はあと一〇秒もない。

 

 あとは、決断だ。


「ツキウサギさん」

「なんです、波止場様?」


「俺の希望を叶えてくれるって話、マジに頼んだよ……!」


 なに、一度も二度も同じことだ。そう思い──波止場は跳んだ。


 車上を切る突風がその身を横薙ぎに浚い、風までもが自分の勝利を全力で妨害しているような錯覚に襲われながらも、波止場は最大限の跳躍を試みた。


 視界の端では、雲に掴まった櫃辻が「……すっご」と口を開いていて、その姿もすぐに橋の死角に隠れて見えなくなり──ザボン! と、水音と衝撃が全身を包み込んだ。


 飛び込んだ五月の河は、酔った脳みそを醒ますにしてもまだ少し、冷たかった。

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