【第7話】#EP

 半径一キロ。移動可能範囲を示す円は先ほどの交差点を中心に、高層建築物群が形作る六號第四区の繁華街を切り取っている。

 建物構内への侵入は禁止されているとはいえ、無造作に生い茂ったビルのおかげで死角も多い。キャットタワーのように立体的に入り組んだ街並みは、逃げ易く、見つけ難い。かくれんぼするにはあまりにも広すぎる都市迷宮。


 しかし今、その優劣はものの見事に逆転していた。


「──おい、あれ! あいつじゃないのか⁉ ヒツジちゃんが追ってる奴!」

「コメントしろ、コメント! 近くで生ヒツジちゃんが見れるチャンスだぞ!」

「でもいいのかよ、もしヒツジちゃんが勝ったらあいつが彼氏になるんだろ?」

「いいんだよ、いいんだよ! 面白ければ!」

 

 頭上に架かる空中歩道から、こちらを指差して叫ぶ通行人らと目が合った。


「……くそっ、大人気じゃないかよ、俺……!」


 波止場は舌打ちすると、すぐさま細い路地に逃げ込んで反対の通りに出る。


 櫃辻が放った綿毛ドローンの姿があれば慌てて姿を隠し、隠れ潜もうとすれば櫃辻が呼び寄せた観客リスナーたちに追い立てられる。

 走って、隠れて、また走って──

 ゲームが始まってからというもの、波止場はこんな指名手配犯ごっこを何度も繰り返していた。


『さてさて、ポッポ君はどこ行ったのかなー? 子羊の目撃情報によるとここら辺に逃げたはずなんだけど──っと、羊分隊長さん、エンチャありがとー♪ んー、Chu^★』


 波止場は屋外駐車場に停めてあったバンを背もたれに、辺りに人の気がないことを用心深く確認すると、《KOSM‐OS》を起動し配信アプリを開いた。

 

 表示窓ディスプレイに映した配信画面には、散歩でもするような気楽さで闊歩する櫃辻の姿がある。

 画面の端には、目で追うのもやっとな速度で流れていくコメント欄。

 玉石入り混じったそれらの情報を、彼女は一体どうやって処理しているのだろう?


 波止場は早々にコメントを追うのを諦め、配信画面のボリュームをゼロにする。


「……てか、あれってズルじゃないの? あの綿毛、数が多い上に撮影機能まで備わってるとかチートじゃないか。……ゲーム終了までまだ三〇分。本人にまだ直接会ってもいないってのに、俺の撮影箇所ヒットポイントはもう三つしか残ってないよ? ツキウサギさん」


 波止場は、ここにはいない和装系バニーガールに向かって泣き言を言う。


 すると、


『──んはは、思ったよりもお早いピンチですねー。波止場様』


 脳に直接息が吹きかかるような至近距離で聞こえたのは、ツキウサギの応答だ。

 ゾクゾク系の感覚に思わず身震いしつつ、依然としての彼女を頭の中で睥睨へいげいする。


「他人事だなぁ……君はどっちの味方なの」

『もちろん波止場様の味方ですよ。ですがまあ、この場に限っては──』


 と、そこで言葉が途切れたかと思えば、


「──ゲームの味方、とでも言っておきましょうかねー」


 配信画面を映していた表示窓ディスプレイから、ぬっ、とツキウサギの頭が唐突に生えてきたのだ。


「おわっ!」と素っ頓狂な悲鳴を上げてしまい、波止場は咄嗟に自分の口を押さえて周りを見渡す。

 幸い、誰かに聞かれた様子はない……はずだ。


「今の私たちは、ゲームの進行と審判を務めるディーラーですからね。お二人が快適に、そして公正公平にゲームが執り行われるよう見守るのが私たちの役目です。無論、向こうの《NAV.bit》が櫃辻様の不正を看過することもないので、その点もご安心ください」


「そ、そう……君たちが仕事熱心なのは解ったから。次からはもっと普通に登場してくれ」


 ツキウサギは半身だけ表示窓ディスプレイから飛び出た格好で、ウサ耳付きの幼顔と天体級の胸の谷間が波止場の目の前に生えている。

 いきなり出てきた時点で心臓が止まるかと思ったが、これは別の意味で心臓に悪い。


 彼女を見ているとつい忘れそうになるが、《NAV.bit》とはあくまでアプリだ。人の脳と直結した《KOSM‐OS》という生体情報端末に住み着いた、電脳の存在。


 契約者の〝希望〟に合った対戦相手とのマッチングを取り付け、パンドラゲームを開催することでその〝希望〟を叶える。彼女たち《NAV.bit》にはその手続きに必要な総ての機能と権限が備わっている。

 ツキウサギはそう言っていた。

 

 ゲームが始まると同時に行われた、スタート地点へのプレイヤーの〝転送〟然り、六號第四区の各所に一瞬で張り巡らされた進入禁止テープ然り、そんなことに呆気に取られている間に、手錠をかけるよりも速やかに波止場の全身にくまなく装備されていった撮影箇所ヒットポイント然り、今さっき彼女と交わした脳内でのVCボイスチャット然り……


《KOSM‐OS》を持たない彼女たちだが、その万能っぷりは一アプリの域を超えているように思えた──が、そんな当たり前なことに一々驚いているのは自分だけのようで、しかも波止場が過去と共に忘却してしまった〝未知〟は、それだけではないらしい。


「……で、質問くらいは聞いてくれるんでしょ? さっきの質問だけど」


『です。櫃辻様が使用しているのは〝EPExpansion Parcel〟と呼ばれる──所謂、拡張アプリです』

 

 波止場の動揺を知ってか知らずか、ツキウサギはほぼ密着した状態でさらに身を乗り出して、周りに声が漏れないよう再び《内緒話ウィスパーモード》で囁いてくる。


『人間様に刷り込まれた回路図形ダイアグラムから直接《KOSM‐OS》へと投与インストールすることで、各媒体に記録されている拡張機能の使用が可能になるんですが……。

 ほら、広場で彼女が自分の首に何かを打ち込んでいたのを憶えていますか? こう──プシュッ、てな感じで』


「え、あぁ……確かにそんなことやってた気も……」


『あれがEPです。あのとき衝突を回避した綿毛のエアバッグも、綿毛のドローンもEPの一種です。あれはその中でも、機殻拡張アクティビティ系と呼ばれるタイプのやつですね』


 ツキウサギ曰く、EPは誰しもが使うことのできる拡張アプリなのだという。


 ガジェットや日用系アプリといった便利な機能を追加、拡張する機殻拡張アクティビティ系。

 身体能力の向上を目的に肉体機能を強化、拡張する身体機能拡張アビリティ系。

 感覚機能を強化し、ときに超能力染みた第六感へと進化、拡張する感覚拡張センシビリティ系。

 

 等々。より根深くネットワークに繋がれた人類が、自らの可能性をさらに拡げ、更なる拡張性を求め開発された公認チートアプリ。

 それが──EP、とのことで。


「……そんな便利なモノがあるなら、ゲームが始まる前に教えて欲しかったよ」

『んはは、だから言ったじゃないですか。これはチュートリアルだ、と。

 今の波止場様はこの世界に生まれ落ちたばかりの同然。言葉で語るよりも直接体験してもらった方が、経験値的には美味しいかと思いましてねー』

「ポッポ君だけに? こんな不利なゲームだと知ってたら、スタートボタンだって押さなかった、って言いたかったんだけど……」


『期待してますよ。これでも私は、波止場様の勝利に賭けてるんですから』

「……だとしたら君は、見る目がない」


 そこで不意に、チリッ、と右目に違和感があった。体内に入り込んだ異物に警鐘を鳴らすかのような微々たるノイズ。誰かに何かを覗かれているような、他人ひとの気配。


 その直後、ガタンと背にしたバンが揺れた。

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