鈍色の空

@zawa-ryu

鈍色の空

 もう泣くのはやめよう。

 一晩中泣きはらしたあと、

 一枚一枚、千切っては捨て、千切っては捨てて、

 ビリビリに引き裂いたダイアリー帳の欠片を見つめ、私はひとりそう呟いた。


 あんな男のために、これ以上傷つきたくない。


 今までも散々そう思ってきたけど、最後はいつも、彼の言葉を信じ受け入れてきた。

 だが、時が経つと彼は何度も私を裏切った。

 そう、何度も。


 私の心はそのたびに、まるで氷のような冷たいナイフで胸を抉られたように、

声にならない叫び声をあげる。


 そんな心の声に蓋をして、痛みに耐えて、耐えて、耐えて。

 すり減っていく感情に気づかないフリをし続けた。


 けれど、そんな日々もとうとう限界を迎えた。


 私は今日この街から離れ、旅立つ。

 新しい街で、本当の自分を取り戻す。


 いいえ、本当の自分なんてもう死んだの。

 私は生まれ変わる。強くて、自立して、きらきらと輝く、新しい私に。


 朝焼けも見えない厚い雲で覆われた空の下、真新しいパンプスを踏みしめ、週末の駅に向かって独り、私は歩いていく。


 ポケットで震えるスマートフォンの着信画面には見知った数字が表示されている。

 昨日の喧嘩のあと、履歴はその番号で埋め尽くされていた。

 私はそれを無視して、止めていた煙草に火をつける。

 私はもう振り返らない。

 スマートフォンの電源を落とすと、誰もいないホームのベンチに腰掛け、鈍色の空に向かって煙を吹きかけた。


 煙はゆらゆらと宙を漂ったあと、もやもや形を変えて、私に話しかける。

 うすぼんやりとした鼠色の煙は、あざけ笑うような口調で私の肩に手を回した。


―デキッコナイッテワカッテルクセニ―

 何が?邪魔しないで。

―ワラワセルワネ。ナニガアタラシイワタシヨ―

 もう決めたの。私は生まれ変わるの。

―ソンナコトイッテ。ホントハフアンナクセニ―

 不安?不安なんてないわ。昨日までの私とはもう違う。

―アナタハツヨクナンカナレナイ。アナタハナニモカワッテナンカイナイ―

 いい加減にして!私は変わったのよ!

―サア?ドウダカ。ナラタメシテミマショウカ―

 試す?試すってどうやって?

―ダッテミテヨホラ―


 視線の先に、じっとこちらを見つめる彼の姿があった。


「……なんでいるの?」


 泣かないと決めたのに、意思に反してみるみる両目には涙が溜まっていく。

―ホントハキタイシテタンデショ。カレガソコニイルコトヲ―

 違う。

―イッタトオリデショ。アナタハツヨクナンカナレナイ―

 やめて。

―アナタハヒトリデナンカイキテイケナイノ―

 彼が近づいて来る。ゆっくりと、まっすぐ私を見て。

 拒絶、しないと。

 でも、

 身体が、身体がいう事をきかない。どうして?


「ごめん」

 彼は一言そう呟くと、私を引き寄せ強く抱きしめた。


―ヨカッタワネ。コレデモトドオリ―

 嫌っお願いやめて。


 彼を振りほどこうとしても、体はピクリとも動かない。

 どうして?どうしてなの?

 私は、私は生まれ変わりたかった。今日ここから、この街から旅立って。

 それなのに、それなのに……。


―ワカッテタンデショ、コウナルコトモ―

―ウマレカワッタジブンナンテドコニモイナイコトモ―


 固まったまま、なすがままの私に、彼はそっと唇をあわせた。


「帰ろう」

 彼は微笑むと、私の手を引いて歩き出した。

 身体が、まるで魔法が解けたように動き出す。


 嫌よ、こんなの嫌。

 嫌なのに、嫌なはずなのに……。


 私は彼の後ろを従いて、下を向いたまま、ふらふらと歩き出した。


―マッタクセワガヤケルワネ。デモコレデワカッタデショ―

―アナタハイッショウソウヤッテイキテイクノヨ―


 瞳から一筋、生温かい感情の滴が流れ、頬をつたう。

 私は、私は……、

 こうなることを、望んでいたのだろうか。


「消えて」

 私が俯いたまま心の中でそう呟くと、

 煙は勝ち誇ったように微笑み、仄暗い空の中に溶けていった。


「マフィンとウィンナーコーヒーを用意してる。好きだろ?」

 スピードを上げ激しくクラクションを鳴らし、軽快にハンドルを捌きながら、

 彼は上機嫌だった。


 私は助手席で曖昧に頷くと、

 窓の外に広がる、どこまでも澱んだ鈍色の空を眺めていた。

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