精神科で処方してもらった抗うつ剤を飲み、椅子に深く腰をかけて、ぐんと落ち込んだ気分が快復するのを待った。エアコンは低く唸り、眠気を誘う温もりを送り続けている。


 副作用としての眠気が間もなくすれば到来してくるだろう。そして、寂しい気持ちを引き連れて寝てしまうのだろう。作業机の上にある小さな本棚に収められた文庫本は、何冊か引き抜かれているせいで、その空隙を埋めるように右へと傾いていてしまっている。


 高畑からの連絡はすこぶる簡単な内容であり、それ故に、わたしにとって一考するに値しないものだった。


「×月×日に学会があって、その日に車を出してほしいんだよ。行きはいいんだ。学会終わりに、仲間たちと食事をするんだけど、たぶん飲むからさ」

「それで、わたしを帰りの運転手に使うの?」

「使うというと、人聞きが悪くてかないな。でも、荻山のからそう遠くないところに会場があるし、昔の縁ということで、どうかお願いできない?」


 昔の縁……といってもそれは、わたしが大学院に在籍していたころに、数回、研究報告の場で顔を合わせた程度である。連絡先は交換したものの、ここ一年はなんのメッセージも交わしていなかった。


 それが今回、ふとわたしのことを思い出して、運転手代わりにしたいと考えたのであろう。虫のいい話である。しかし一応、このことはいてみたかった。


「いくらくらい貰えるの?」

「貰える? なにを?」

「車を出して送り届けるのって、時間もお金もかかるんだよ。だから、お金を貰わないと割にあわない」

「だけどなあ。荻山も知ってるだろ? 大学院生ってお金がないから、持ちつ持たれつの協力関係でやってるって」

「でも、わたしだってお金はないんだよ。それならせめて、ガソリン代は払ってもらわないと困るよ」

「ええ……それってくらいなの?」


 わたしはそこで「忙しい」と言い捨てて電話を切った。あまりにもこちらを馬鹿にしている。すると、今度はテキストでメッセージが送られてきた。


《なにか不愉快なことを言ってしまったのなら申し訳ないけれど、気が向いたら連絡してください》


 もちろん、そのメッセージに返信をすることもなかった。持ちつ持たれつの協力関係だと言うけれど、そもそも、わたしはもう大学院に在籍していない。それなのになぜ、運転手の役割を無償で担わなければならないのか。


 鹿野のことを思い浮かべる。彼女はむかし、こんなことを言っていた。


「あーしは、自分の仕事が一番大事で、これから挑戦してみたいことがたくさんあるから、あーしの仕事を邪魔するひとだったり、こっちにとってメリットのないひとだったりしたら、関係をばっさりと切るな。必要のない人間関係を持つと、ストレスしかないし、足枷あしかせになるから」


 翻訳の仕事をしている鹿野は、生きているうちに、習得できるかぎりの言語を使いこなして、たくさんの邦訳をしたいと考えている。その夢というか、使のためならば、人間関係なんてどうなっても構わないのだという。


 もしそれくらいの度胸を持つことができたとしたら、わたしの小説は「くだらない」と言われるものにはのだろうか。


 いや……そもそも、プロになるためには、人間関係の維持に躍起になって、縁が切れることに悲痛を覚えるなんて時間は、無駄なのだ。


 人間関係なんてどうなっても構わない――この言葉は、きっと正しい。少なくとも、鹿野やわたしにとっては。わたしと鹿野の親密さを考慮すると、どこかパラドックスのようなものを抱えているように見えるけれど、もしかしたら彼女は、いつかわたしとの関係も切るかもしれない。


 それくらいの覚悟を持てるか?――わたしの目の前に突き立てられているのは、ただこの問いだけなのだ。


 たとえ「くだらない小説」と言われたところで、意に介する必要はない。そんな雑音にこころを痛めている時間があるのならば、小説を書くべきだ。SNSで親しく会話をしたり、未読の投稿を遡って読んだりするなんて、、必要のない時間だ。


 それに、の存在に委縮して、イベントに参加しないなんて選択肢は、唾棄だきすべきなのだ。ひとりでも多くの方に、の同人誌を手に取ってもらうのが、わたしのするべきことである。


 たとえこの想い――決意をだれかに知られ、不愉快に思われ、悪口を言われても、一向にかまわない。


 どうぞわたしを、嫌ってください。

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