第九章 風

第三十一話 

 階下からキャアキャアと女たちの嬌声が聞こえてくる。確認するまでもない、間違いなく悠だ。

「お清。悠さんです」

「あい」

 お清はずいぶんとわかって来たらしく、部屋の外で悠を待った。

 しばらくすると「やぁお清ちゃん、今日も可愛いねえ」という甘ったるい悠の声と「お待ちしておりました」というたどたどしいお清の声が聞こえてくる。

 すっと唐紙が開くと、相変わらずお清を抱っこしてご満悦の悠がそこに立っていた。

「悠さん、いつまでお清を抱っこする気ですか。もう七つです。いい加減にしてください」

「まだ七つじゃないか。十にもなると迂闊に抱けない」

「だから言い方! もう出入り禁止にしますよ」

「奈津にそれができるのかい?」

「だからその名前!」

 悠はお清を下ろすと自分も片膝をついて視線を合わせた。

「お清、お前は太夫みたいないい女になるんだよ。そしたらあたしはおじさんになっても来るからね」

「悠さんはおじさんにはなりません。清は悠さんのお嫁さんになります」

「ああもう、お清は可愛いねぇ」

 思わずお清を抱きしめて頬ずりしていると、そこへ無慈悲な蜜柑太夫の声がかかる。

「お清、隣の部屋に下がりなさい」

「あい」

 お清はよほど悠を気に入っているのか、唐紙を開けて畳に額を付けると、閉める時に小さく手を振った。もちろん悠の方がいつまでも手を振っていたが。

「で、何か掴んだのかい?」

「掴んだと言えば掴んだ、そうでないと言えばそうでないといった感じですね」

「おや、奈津にしちゃあ珍しいね」

 蜜柑太夫は翡翠色の袖を口元に当てて「そんなこと初めて言われましたね」とため息をついた。

「いつも確実に情報を掴んで来るじゃないか」

「ええ、まあそうなんですけど」

 今日はいつにも増して歯切れが悪い。

「七篠先生はまだ行けると思えば暗黒斎先生にご相談なさるんだそうです。それで暗黒斎先生の方へ戻される場合もある。これはもう手遅れで数日内に亡くなるという状態にならないと暗黒斎先生は七篠先生を紹介しない、そういうふうに決めてるんだそうです」

「なんだい、いい先生じゃないか」

「そうなんです。それで最期を家族とともに看取るだけの診療所なんだそうです。その時に患者が苦しまないように大量の麻酔を使う。そして使った分しか薬代は請求しない。まさに庶民の味方……と言ってもお金を持ってる方だけですが」

 そこにちょうどお清がお茶を運んで来た。危なっかしい手付きだが、ちゃんと二人の前に置くことができた。

「ごゆっくりどうぞ」

 言葉はまだたどたどしいが、お清は本気で悠にゆっくりして行ってほしいと思っているのが伝わって来る。

「上手になったねぇ、お清ちゃん。いただくよ」

「あい」

「もう下がりなさい」

「あい」

 相変わらず静かに悶絶している悠を無視してお清を下がらせると、悠が思い出したように言った。

「で、薬はどこから仕入れてるんだい?」

「それが甚六さんのところだというんです。もうずっと」

「松清堂があったころから?」

「そう。松清堂からは買わずに直接甚六さんから買った方が安く上がりますから」

「つまり甚六さんは松清堂にいるころから自分の販売経路を持っていたんだね」

「そうですね。松清堂があるころは暗黒斎先生も松清堂から買っていたんですが、今では全部甚六さんから買っているみたいです。それも暗黒斎先生が困っているのを見かねて七篠先生が紹介したみたいで。七篠先生は最初から甚六さんだけから仕入れていたようですね」

「さすが奈津、大したもんだ。それだけ調べ上げるのは大変だったろう」

 だが何故か蜜柑太夫の顔は冴えない。

「ええ」

「なんでまたそんなしょぼくれたような顔をしてるんだい」

「しょぼくれただなんて。そんなだから悠さんはおなごに縁がないのです」

「違うさ」

「じゃあ子供にしか興味が無いから」

「お奈津との約束を忘れていないからさ」

「そんなことを言って片っ端からおなごを落としているのですね。最近じゃオカマも落としているとか」

 悠は笑うだけで何も言わない。とんでもない男だ。

「七篠先生がどうやって甚六さんを見つけたかがわからないんですよ。あの頃はまだ甚六さんも柏原に住んでいて松清堂の奥で薬の調合をしていたんです。だから彼が松清堂にいたことすらあまり知られていない。その後松清堂をやめて楢岡に引っ越しましたけど、七篠先生が甚六さんに注文を入れていたのはそれよりもずっと前からなんです。そこがどうしてもわからない」

「ああ、それで歯切れが悪かったんだね。いいさ、あとはこっちでやっておく。奈津がそこまで調べてくれたんだ、あたしが無駄にするわけがないじゃないか」

「そうですね、あとはお願いします」

「そういえばオカマで思いだしたんだけどねぇ」

 悠は琴次の筋肉質の体を思い出して笑った。

「榎屋のおかみさんがもう持たないってんで七篠先生に頼んだんだけどね、おかみさん、お玉ちゃんの花嫁姿が見たかったっていうもんだから、みんなで計画して祝言を挙げることにしたんだよ。もちろん偽物さ。その時のお玉ちゃんの婿役が琴次だったんだ。アイツは黙ってりゃそこそこいい男だしね、いい体もしてる。おかみさんには麻酔をたくさんかけてなんとか祝言の間は持たせたんだ。ま、祝言終わっちまったらポックリ逝っちまったんだけどね」

「間に合ってよかったですね」

「冥途のいい土産ができたって喜んでたらしくて七篠先生にお礼かたがた挨拶に行ったんだ。ところが母を亡くしたばかりのお玉ちゃんが心配で、琴次がついて行ったんだよ。あれも心配性でね。そしたらちょうど七篠先生のところにゴロツキが二人いて、何か絡んでたらしいんだ。で、そいつをとっ捕まえようってことになったんだけどねぇ、捕まえてみたらあのウマシカ兄弟だったのさ」

 太夫が一瞬湯飲みを落としそうになった。

「ウマシカ兄弟! あのウマシカ兄弟ですか! 悠さんの耳に穴を空けた!」

「いや、空けたのはあたしだよ。あの二人はきっかけになっただけさ」

「それにしてもあの二人、二十年間全く成長してないじゃありませんか」

「まあ、ウマとシカだからね。でもあの二人も七篠先生がどこから薬を仕入れているのか聞いてくるように頼まれただけらしいのさ。しかも依頼人がわからない」

「土左衛門になるクチですね。助けてやったら如何です」

「まあ、少し泳がせて、本丸がわかったら助けてやるさ」

「悠さん、年々性格悪くなってきてませんか」

「そんなこたぁないよ。しかしこれではっきりしたね。七篠先生には何かある」

 悠が障子の一点を睨む。そんなときの彼は色気に意思が乗っかって冗談みたいに色っぽい。

「わたくしは何を?」

「奈津はもういい。これ以上は危険だ」

「アヘンが絡んでいるからですか」

「しっ……その言葉は言うんじゃないよ」

 太夫は少々残念そうに俯いた。

「なんだいそんな淋しげな顔をして」

「悠さんだけがわたくしを置いて行ってしまう。わたくしも佐倉の人間なのに」

 悠は立ち上がって唐紙に手をかけた。

「あたしにはお前さんが何より大事なのさ」

 返事を聞く前に悠は部屋を出て唐紙を閉めた。廊下の方から悠がお清と戯れる声が聞こえて来た。

「まったくもう、あの女ったらし!」

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