第八章 師匠はやめてお友達

第二十八話

 四月の末、五人兄弟の家で算術を教えて一休みしていると、甚六がお茶を淹れて持って来た。

「お師匠さん、どうです、うちのガキどもは」

「甚六さんまでお師匠さんなんて言わないでくださいよ。お恵でいいですよ」

 甚六は真面目な顔で首を横に振った。

「あっしがちゃんとしねえとガキどもに示しが付きませんから」

 なるほど、自分でお手本を見せるというわけだ。親も大変だなとお恵は子ども心に思う。自分の両親もそんなことを考えながら自分を育てたのだろうか。

「五人とも勉強熱心ですよ。宿題もちゃんとやりますし。仮名は全部書けます。漢字も少しなら。『甚六』と兄弟たちの名前は全員が書けます」

「ほう、そりゃあすげえ。あっしが教えたときは何にも覚えられなかったのに」

 甚六は照れて見せるが、当然ではある。甚六は仕事の片手間に教えていたのだ、覚えられるわけがない。彼の教え方が下手なわけではないのだろう。

「あと、卯一郎さんは算術が得意です。算盤も使えます。辰二郎さんも算術はできますけど算盤は苦手みたい。午三郎さんは文字を覚えたらすぐに薬草とその薬効と採れる時期や場所、採った後の処理方法なんかをまとめています。彼は算術よりそのまま薬草のことを好きなだけ勉強して貰った方がいいと思います」

「下二人は?」

「まだ算術は難しいかな。羊ちゃんは足し算はできます。彼は優しくてよく気が付くから、誰かの補佐をしているのが合ってると思います。酉ちゃんはまだ未知数です。小っちゃいからこれからどれだけ大化けするかわかりません。少なくとも、算術は卯一郎さんがみんなに教えることができるところまで来ているので、あたしはもうお払い箱かもしれません」

 甚六は心を見透かされたように照れて俯いた。

「すいません。うちもガキを五人も養うのは大変だし、寺子屋頼むのもお金がかかるし、頼んだはいいけどそろそろ払うのも厳しくなってきたなという感じだったんですよ」

「父ちゃん、師匠に来て欲しいよ!」

「やめないどくれよ」

 五人とも密かに聞いていたらしい。上の子たちは黙っていたが、下二人はやはり黙っていられないようだ。

「大丈夫よ。あたし、師匠はやめるけど、今度はみんなのお友達になるの。ねえ、お友達だからたまに遊びに来てもいいかな」

「もちろんだよ、ねえ、父ちゃん!」

 酉五郎が甚六の袖を引っ張る。

「お構いできなくなりやすが」

「お茶くらい卯兄が淹れてくれるよ」

「お茶なんかいらないわ、あたし曼陀羅華まんだらけの花が見たいの。ほかにも見たい薬草の花がたくさんあって、ここで辞めちゃうと見られなくなっちゃうから、遊びに来たいのよ」

「もちろんだよ。毎日来たっていいよ。これからちょうど忙しくなるから手伝って貰おうかな」

 そう言って兄弟たちは笑った。


 それからもお恵は今までと同じように、三日に一度甚六の家に通っていた。もう寺子屋の仕事をしているわけではないので三郎太には「一人で行くからいい」と付き添いを断ったが、「はいそうですか」という訳もなく、三郎太は毎回送り迎えをしていた。

 なにしろお恵の身に何かあったら悠が黙っちゃいない。悠は三郎太よりも年下だし体力もまるでないが、なんというか妙な凄みがあるのだ。何か『何人もの死を眺めて来た』ような雰囲気を漂わせているとでも言おうか。そして人の裏の顔を知りながら表の顔と付き合っているような百戦錬磨の佇まいを見せている。

 その悠が「お恵を守れ」と言っている(ように見える)のだから、そうしなければならないような気がするのは仕方ない。

 どう考えても栄吉の方が強そうだ。睨んだだけでションベンちびりそうになるくらい怖い。中身はいい人なんだが、とにかく雰囲気が怖い。こっちは本当に十人や二十人は殺していそうだ。まあ、そういった話は聞いたことがないが、何故か会う人会う人みんな同じことを言う。どう考えてもお恵の警護は栄吉の方が適任だが、ぎっくり腰なんじゃあ仕方がない。

 結果的に三郎太は三日に一度、楢岡に馴染み客を増やしに行くのである。最近じゃ楢岡の人にも「三郎太さん」と声をかけられるようになった。なかなか悪い気はしない。

 お恵の方はと言えば、もうお師匠様でもなんでもないただのお友達である。せっかく遊びに来たのだからいろいろ薬屋の手伝いをさせてもらいたいというのが本音だ。

 最初甚六は「よそのお嬢さんに何かあっちゃいけねえ」と渋ったが、午三郎が「おいらが安全な仕事しか手伝わせねえ」というので特別に許可した。「済まねえが手伝ってもらってもお給金は払えねえ」という甚六に「私はやりたくてやってるの。お給金なんかいらないわ」と嬉々として午三郎と畑に出て行くのを、甚六は不思議な気分で眺めていた。

「まずは何をしたらいいかしら」

「これ。なんだかわかる?」

 午三郎が採って来たばかりらしいたくさんの草の束を指した。

「わからない」

「これが蟒蛇草うわばみそう。蛇の出そうなところに生えてるからそう言われる。ちょっと水場の近くだとよく見かける」

「へえ」

「まずはこれを井戸の水できれいに洗うんだ。それから干す。下痢止めになるんだ。今日はそれをやろう」

「はーい」

 二人は井戸の水を汲みながら笑った。

「この前までお恵ちゃんがお師匠様だったのにな」

「今は午ちゃんがお師匠様よ」

「でもなんで薬屋なんか?」

「薬を作る工程に興味があるの。麻酔薬は特に知りたいんだ」

 午三郎は少々難色を示した。

「麻酔薬は危険だから……花を見るだけにして、あとはおいらたちの仕事を見せてやるから、お恵ちゃんは手を出さない方がいいよ」

「でも曼陀羅華まんだらけとか罌粟けしとかお花は見てもいいでしょ?」

「うん、罌粟はもう始まってる。今度来た時がちょうどいいくらいだから見せてやるよ。今日は蟒蛇草な」

「うん、がんばる」

 文字通り、お恵はその日くたくたになるまで働いて満足して家に帰った。

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