第十五話
榎屋は上を下への大騒ぎだった。
お玉の話を聞いた主人は、最初冗談だと思って受合わなかったが、しばらくして三郎太と琴次が来てやっとその話が冗談なんかではないということを理解した。
おかみさんはそもそも別室で床に就いているので、三郎太がおもに今回の計画の説明をして、琴次とお玉がその気になっていることや、悠が衣装を借りてくれることなどを話した。
主人は初めは驚いて口をパクパクさせるだけだったが、おかみさんの様子からもここ二、三日中には鬼籍に入ると思われていたため、その案に乗った。
さあ、それからが大変である。お店は臨時休業の札を出し、琴次はなるべく家族と一緒にいて親睦を深め、お店の者たちは駆り出されて式が挙げられる程度の空間を作った。主人は近所の人に事情を話し、床に敷く白い布やお店の商品を覆う布などを借りて来てせっせと式場をこしらえた。
そうこうする間に所帯を持たない三郎太は枝鳴長屋の差配の彦左衛門に頼み、結婚式の段取りを教えて貰うことにした。彦左衛門は教えるどころか手伝うつもりでついて来た。もう何から何までがインチキである。
夜になると柏茶屋から遣いの者が数人で大八車を引いて来た。大八車に積んだ柳行李には花嫁衣裳一式と花婿の衣装と仲人の衣装も入っていた。完全な白無垢というわけにはいかず(お玉が太めだったこともあって用意が間に合わなかったのだろう)、振袖だけ赤だったが、その方がかえって彼女に似合っているようだった。
琴次の方は元々の体格が良く、顔もなかなかの色男だったのでちょっと驚くような美男に仕上がった。問題なのは、その顔でやたらと悠に色目を使うことだけであり、悠に「色目はお玉ちゃんに使え」とたしなめられていた。
言わずもがな、栄吉は紋付き袴が異常に良く似合う。全員これで行けそうだということを確認したら、いったん汚さないうちに脱ぎ、衣紋掛けに広げた。婚礼は明日の夕方である。
その間にやらなければならないことを彦左衛門が指示した。三々九度の盃はどうなっているのか、店構えはどうするのか、近所の人達にはどう説明するか、明日朝一番にやらなければならないことは何か。
彦左衛門に来てもらって本当に良かったと三郎太は思った。よく考えたら枝鳴長屋はみんな独り者なのである。榎屋さんの御主人は忙しいので、誰かに指揮をとって貰う必要があったのだ。
その晩、琴次は榎屋に泊まった。なにしろ縁談の決まっていた児玉屋に蹴られたが、もともとお玉には惚れた相手がいた、という設定なのだ、それなのに本人たちは今日が初対面だ。さすがにそういうわけにもいかず、今日は泊って行ってしばらく話をしようということで、お玉は休ませ、ご主人と琴次で軽く酒を飲みながら話すことにしたのだ。
枝鳴長屋の三人と彦左衛門はいったん帰り、明日の朝から仕事をする事になっている。一番大変なのは悠だ。お玉の代わりにおかみさんを七篠先生のところへ連れて行かなければならない。まあ、これだけの男前だ、おかみさんも文句も言うまい。
翌朝。四人が榎屋へ行くと、すっかり朝餉も終わりおかみは七篠先生のところへ行く支度が出来ていた。
「おっ母さん、今日は七篠先生のところへの送り迎えはこの悠さんに頼んであるからね」
悠は素知らぬ顔で「おはようございます」と挨拶したが、「こりゃ済まないね」と言った顔にはあのおかみさんの面影も無かった。目は落ちくぼみ、頬は痩せこけて骨と皮だけになっていた。歩くのもやっとという感じだった。それでも不満気な顔で娘に向き直った。
「今日は最後の日だよ。あたしはもうこの家の敷居を跨がない。どうしてお玉が送ってくれないんだい?」
すっかり困り顔になってしまったお玉に変わって悠がにっこりと笑った。
「もう一度この敷居を跨いでもらうからですよ。その話は七篠先生のところへ行く道すがらお話しましょう」
「まだ生きなきゃならないのかい。もうこの世とおさらばすると思って、一番お気に入りの着物を着て来たんだ」
「そりゃあいい。その着物を選んだのは正解です」
おかみさんは「さっぱりわからない」という顔をしながらも悠の押す手押し車に乗せられて出発した。
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