第八話
何日かして、お恵が朝っぱらから三郎太の部屋を訪れた。どうやら今日が初日のようだ。確かに昨日、悠がお恵のところに頼まれた絵を納品していた。
三郎太はふいご箱を背負い、お恵は風呂敷包みを持って、楢岡に向けて出発した。
甚六の家は楢岡と言っても楢岡の街中までは行かない。楢岡に入る手前の一本松から左に入るのだ。
一本松を通り過ぎてずっと行くと、また左に入る小道があるが、それはどこへ続くのかわからない。案外柏原の
そこをさらに過ぎていくとやっと楢岡の町に出る。だから甚六の家は楢岡と言ってもかなり柏原寄りなので、さほど遠くはないのである。
一本松から左に入ってしばらく坂道を上ると甚六の家が見えてきた。お恵は「ここでいいわ」と言うと、三郎太に礼を言って走って行った。お昼頃に帰ると言っていたので、その頃にまた迎えに来ればいいだろう。
お恵を送り届けた三郎太は、そのまま楢岡の町に
そこそこ稼いでそろそろお恵を迎えに行こうかというところで、思わぬ声に呼び止められた。振り返るとそこには榎屋のお玉とおかみさんがいた。おかみさんは手押し車を押し、お玉はその後ろで笑顔を見せていた。
「やぁ、お玉ちゃん。おかみさんもお揃いで」
ところがおかみさんの様子が普段とさほど変わらない。今にも死にそうだと言っていなかっただろうか。
「この度はとてもいいお医者様をご紹介いただいて、本当にありがとうございます」
医者?
三郎太がポカンとしていると、お玉が「ほらこないだ」と言った。
「お医者様を紹介してくれたでしょ? 今行って来たのよ」
そう言えば手遅れの人を診てくれる医者は楢岡の人だと言っていた。
「先生の診療所、わかったのかい?」
「ええ、直接暗黒斎先生のところに聞きに行ったのよ。暗黒斎先生も最初は渋っていたけど、暗黒斎先生には治せないんでしょって食い下がったら教えてくださったわ」
お玉はあまり強引なところを見せる子ではなかっただけに三郎太は度肝を抜かれた。母のためなら強硬手段にも出られるわけだ。
「それでね、行くときはもうここに来るのもやっとなくらいだったのよ、この手押し車に乗せてきたの。だけど見てよ、自分で歩いてるのよ」
「あたしも不思議なんですよ、先生に診ていただいたら、たくさんの麻酔を使いますから楽にはなりますけどいつまでもつかわからないって言われたんですよ。それとね、あなたはもう手遅れだから治すことはできませんよって。でもこんなに調子が良いと治っちゃうような気さえしますよ」
「へぇ、そりゃあ腕のいい先生だな」
「三郎太さんのお陰よ、ありがとう」
「それよりその先生、名前は何て言うんだい」
「
「わかった。絶対に言わねえ。それより、結構お金がかかったんじゃないのかい?」
お玉は母親の方を気まずそうにチラリと見やってから、明るい声を出した。
「うん、でも払えない額じゃなかったわ。これだけの効果があったんだもの、あれくらいは取られても仕方ないわね」
いったいどれくらいとられたのかはわからないが、聞くのもちょっとおかしなものなので、三郎太はそこに関しては何も言わないことにした。
「これから楢岡の町を少し眺めてから帰ろうと思ってるの」
「そうかい。杵屋のあんころ餅がうめえぞ」
「さすが三郎太さんは何でも知ってるわね。じゃ、それ買って帰るわ。ありがとう」
玉のような親子はポヨンポヨンと跳ねるように街中へ消えて行った。
「まあ、元気になったんなら何よりだな」
三郎太は二人を見送ると、お恵を迎えに一本松へと向かった。
一本松に到着すると、ちょうどお恵が坂道を降りてくるところだった。その後ろから、凍夜くらいの子と、それよりもう少し小さい子が追って来て「お師匠様ぁ、また来てねー!」と叫んだ。お恵も振り返って手を振った。
「ちゃんとおさらいしとくのよー」
「はぁい」
どうやらしっかりとお師匠様で定着したらしい。三郎太が声をかけるとお恵が小走りにやって来た。
「三郎太さん、待っててくれたの?」
「いや、ちょうど今来たとこなんだ。お師匠様慕われてるじゃねえか」
「いやだ、見られちゃった?」
二人は並んで歩き始めた。
「今のは?」
「下の二人。四番目の
「へえ、なんか干支みたいだな」
柏原へ続く峠の坂道はさほど急勾配ではないので、のんびりお喋りしながら歩けるのがいい。
「そうなのよ。干支に生まれた順番をつけてるらしいから、すぐに覚えられたわ。上の二人は
「そりゃあ覚えやすいな」
「それだけじゃないのよ。性格が干支の動物によく似てるの。卯一郎さんは人見知りの癖に寂しがり屋なの。辰二郎さんは豪快で行動力があるわ。午ちゃんは割とボーっとしてるんだけど、薬草のことになると目が輝くのよ。薬草のことなら午ちゃんが一番詳しいの。羊ちゃんは優しくて気配り上手なんだ。酉ちゃんは落ち着きがないかな。まだ小っちゃいし」
なるほど、干支の動物そのものの性格だ。午三郎は少々変わっていて、薬屋になるべくして生まれたという感じではある。
「で、初日の手ごたえはどうだい?」
「そうねぇ、悠さんの絵が随分役に立ったわ。ただ『いろは』だけを教えても覚えられないけど絵がついてたら効果は抜群よ。今日はまだ読みだけだけど、次から書きもやるの。だから読めるようにしておくようにって言ってあるんだ」
「なかなか堂に入った御師匠さん振りじゃねえか」
「えへへ、まあね。もう次回からは一人で来られるから大丈夫よ」
三郎太は大袈裟にかぶりを振った。
「冗談言っちゃいけねえ。お恵ちゃんを一人で行かせたなんて言ったら悠さんに鼻の穴から屋形船蹴り込まれるぜ」
「凄いのね、悠さん」
そんなわけがない。栄吉ならやりそうだが。
「まあとにかく、おいらも楢岡での仕事があるからついでだ。一緒に行こうや」
「うん。三郎太さんが悠さんに叱られちゃうもんね」
なんでおいらが悠さんに叱られるかなぁ? という些細な疑問を呑み込んで、三郎太はお恵を枝鳴長屋まで連れて帰った。
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