第51話 流星の仔と、皐月賞の展望
皐月賞までの1か月はあっという間に過ぎ去って行ったが、その前に彼らには重要なイベントが発生する。
4月。
前年に種付けした繫殖牝馬の出産だ。父は、デヴァステイター、母は、ナイチンゲールだった。
そして、この仔こそが後に「運命」を分かつ存在になる。
「可愛い~」
出産には、いつものように獣医の岩男千代子が立ち合い、すでに数回お産を経験している牧場長の真尋や、厩務員の結城、相馬も立ち合った。
そして、その日は、圭介や美里の姿もあった。
いつものように、「可愛い」と叫んでいたのは、もちろん真尋だったが、獣医の岩男千代子は、産まれたばかりの幼駒を見て、感慨深げに呟いた。
「目に力がありますね」
そう。産まれたばかりの赤ん坊の馬なのに、不思議と
それに、額には「流星」、つまり額の白斑が鼻筋の方に流れている形があり、その上、特徴的だったのは、体が非常に柔らかいことと、人懐こいことだった。
通常、産まれてしばらくは、馬といえど母親の元から離れようとしないのだが、彼は違っていた。
立ち上がってしばらくは、もちろん母親のナイチンゲールと一緒にいたが、しばらくすると厩務員と触れあい、あっという間に、子安ファームの人気者になっていた。
「人懐こくて可愛い~」
と、真尋はご満悦だったが、他の2人の意見は違っていた。
「アスリートのように体が柔らかいですね」
「頭のいい奴です。こいつはきっといい競走馬になります」
結城が、そして相馬が、いつになく真剣な表情で言い切っていた。
通常、産まれたばかりの仔に、いきなり名前をつけることは珍しく、1歳か2歳まで待って、セリにかけたり、入厩の準備をしている間に名づけたりするのだが、圭介は彼ら従業員とこの馬の様子を見て、即断即決した。
「名前は、ミヤムラシンゲキオー。セリには出さない」
と、明言してしまった。
彼自身、この馬には、他の馬とは違う「何か」を感じていたし、美里はもちろん反対はしなかった。
そして、彼を育成している間に、その時が来る。
皐月賞だ。
2005年4月17日(日) 中山11
前回の弥生賞と同じ競馬場、同じ距離だが、違うのは、彼らが駆け付けたことだった。
圭介は、いつも連れて行く相馬以外に、今回は美里を伴って、千葉県船橋市にある中山競馬場まで出向いた。
「デカいなあ」
初めて訪れる中山競馬場の大きさに、圭介は驚嘆して、見上げていた。
まるでビルのようにそびえたつ数階建ての吹き出し空間。そこにはブロックごとに分けられたシート席があったり、飲食店が入っていたりするが、一種の「巨大ショッピングモール」のようにも見える。
圭介は、札幌競馬場や函館競馬場、福島競馬場や新潟競馬場にも行ったことがあるが、中山競馬場は初めてだった。
想像以上の大きさに圧倒されたが、人の数も半端なく多かった。
何しろ、年に一度のクラシック初戦、皐月賞だ。
10万人以上の群衆が、この中山競馬場に殺到する。
あまりにも人が多いから、人に酔ってしまいそうだと感じた圭介は、早めに馬主席に向かおうとしたが、その前に、関係者しか入れない通用口から、とある人物に会いに行くことにした。
今回、出走するヴィットマンを管理する、関西の栗東所属の調教師、立木安信だった。
どちらかと言うと、苦手な部類に入る人間だが、それでも彼のお陰で、ヴィットマンがここまで来れたのは間違いないから、挨拶に向かったのだ。ついでに色々と聞いておこうと思っていた。
圭介は、美里と相馬も連れて行く。
そこで出会った立木安信は、相変わらず険しい表情をしており、サングラスをかけ、野球帽のような帽子をかぶって、腕組みをしていた。
一見すると、
「おう。オーナー、来よったか」
まるで彼を待っていたかのように、心なしか口元に笑みを浮かべた。
「はい。立木先生、ヴィットマンはどうですか?」
その一言だけで、全てを察してくれたらしい。
「ああ。出来るだけのことはやったわ。後は、あの馬自身と、騎手の池田の力やな」
「ありがとうございます。皐月賞、期待しています」
「ああ。ただな……」
立木は、どうも言い淀んたように、表情を曇らせた。
「どうしました?」
と圭介が尋ねると、彼は興味深いことを口走った。
「ヴィットマンはいい馬や。だが、どうもズブいところがあってな。それに、クラシックってのは、結局、運が絡むんやが、今年はどうも運が悪すぎる」
ズブい、とは競馬用語で、「エンジンのかかりが遅い」ことを意味し、騎手が追わないと、なかなか前に行ってくれない馬を指す。この手の馬は、短距離戦には向かない。
そして、クラシックに運が絡むというのを聞いて、圭介はすぐに察した。
「ヤマデラファイアとイーキンスですね。どちらが強いですか?」
「どっちもや。チャンスがあるとすれば、向こうは逆に仕上がりが速い早熟型と見たから、年を重ねたら逆転するかもしれん」
つまり、現時点では、ヴィットマンの「勝ち目」は薄い、と圭介は感じ取った。
競走馬は、人間と同じく「早熟型」、「大器晩成型」がいるが、恐らくヴィットマンは後者で、ヤマデラファイアとイーキンスは前者なのだろう。
前年の新馬戦で対決し、朝日杯フューチュリティステークスで勝っていた、イーキンス。そして、同じく前年のラジオたんぱ杯2歳ステークスで対決した、ヤマデラファイア。
ヴィットマンのライバルたちは共に参戦しており、ヤマデラファイアが単勝2.3倍の1番人気。イーキンスは単勝3.2倍の2番人気。そして、ヴィットマンは単勝20.1倍の5番人気だった。
スポーツ新聞によると、ヴィットマンは弥生賞の時と同じように、馬柱には△印が複数ついていたが、一部〇印がついていた。
立木と別れた後、美里に対し、
「どう思った?」
と、圭介は尋ねていたが、賢い美里はすぐに察した。
「いい先生じゃない。口は悪いけど、照れ隠しなのかもね」
わざわざ聞いたのは、かつて預けた、ミヤムラボウズが、この厩舎のスパルタ調教が原因で亡くなったらしい、という疑いがあったからだ。
だが、圭介も美里も、この一件で、立木という男の本性を、おぼろげながらも感じ取った。
(きっと不器用な人なんだな)
(真面目すぎるのかしらね)
仕事に対しては、物凄く真面目。ただ、不器用なために誤解されやすい。立木とはそういう人なんだと彼らは思うのだった。その意味では「信頼できる」と判断したと言い換えていい。
いよいよ彼らにとって、「初のクラシック」が始まる。
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