第2話 「愛の終わり」という絵の前で

その絵の前で、黒川龍斗は手巻きの煙草の煙をゆっくりと吐き出していた。


白髪の長い髪をオールバックにして無造作に後ろでまとめていた。年齢は60を超えていたが背筋が通っており、同じようにまっすぐ通っている鼻筋に、金色の縁取りのメガネがのっている。若い頃はかなりの美男だったとわかる容貌であった。


揺れる煙がちょうどいいセピア調のその絵は、洋式の墓場で細身で筋肉質な男が、墓場から裸婦を取り出し両手で抱きしめている油絵であった。


次にどこに筆を置くか、それだけに黒川は3本の煙草を消費していた。


「先生、こんにちわ。」


明るい声が洋館の高い天井に響き渡る。大学生の吉田美緒だ。長い黒髪は美しく、化粧っけがないため地味な印象だが、大きな瞳が美しい女性であった。彼女はフレアのスカートを翻しながら、大きな荷物を近くのテーブルに置いた。


「先生!!また何本吸ったんですか!煙たいですよ!」


そう言って海外しく、灰皿にこぼれんばかりの煙草を彼女は片付け始めた。


築100年のこの洋館は、昼間はステンドグラスに光が当たらず、低い窓から入る光だけでは少し暗い。暗い理由は光だけではなく、煙のせいもあるだろう。


「君はいつも元気だね。」


黒川は一度諦めて、筆を置いた。応接間の奥にある、炊事場から彼女が大声で言う。


「体に悪すぎですよ!大体、絵の前で煙草を吸うなんて怒られちゃいますよ。」

「誰にだい?」

「絵が!」

「僕の絵よ。文句言わせんよ。」


そういいながら、黒川はまた煙草をつける。灰皿まで洗って戻ってきた美緒にもお、と非難の声を浴びせられるまでがここ最近のルーティンだ。


「この絵、まだ完成しないんですか?」

「まだ3層しか重ねてないよ。」

「十分綺麗だと思うんですけれどね。」


10号サイズのやや大きめのキャンパスではあるが、奥行きまでしっかりと書かれたその絵は現物よりも大きく絵を見せていた。写真で撮ったら、とても大きなキャンパスだと思われるだろう迫力がある。


黒川は遅咲きの油絵画家であった。彼の経歴はかなり特殊で高校卒業後、プロレスの世界へと足を踏み入れ、それなりに名を馳せたあとに筆を取り始めたのだ。何年も図書館や美術館で模写や勉強をした期間は、彼曰くどんな合宿よりも辛かったという。


日本美術家連盟にも名を連ねている彼だが、美緒が彼に出会って2年、おおよそ絵で食べていけているようには見えなかった。たまに、カフェなどに飾る絵の受注はしているようだが、それも極稀だ。基本的にはコーヒーを飲み、煙草を吸って、好きな絵を描き、好きな時に寝て、好きな時に起きている。そういう印象だ。


「にゃおん。」


黒い塊がリンと涼やかな音をたてて、しなやかにやってきた。


「クリムトちゃん。おはよー!今日は煮干しを持ってきたぞぅ。」


そう言って、美緒はカバンの中かから、猫用の煮干しを取り出した。彼女が来るとおやつももらえるとクリムトと呼ばれる黒猫はもう学習しているのだろう。黒川には見せないかわいい顔をして、美緒にすり寄った。


「うちの子は完全に美緒に餌付けされたな。」

「先生もおやつをあげたらいいじゃないですか。」

「君が上げるから僕があげられなくなったんだろう。」


年齢にそぐわない拗ねた表情に、美緒はこっそりを笑みをこぼした。


吉田美緒は昔から絵を描くことが好きであったが、美術学校に行くほどではなかった。大学に入り越してきたこの街は時々蚤の市が行われる。そこで黒川と出会った。絵の値段は正直蚤の市で飼うような値段ではなかったので買えなかったが、すべての絵に共通するその哀愁が好みだった。話を聞いてみると好きな時に絵を教えてくれるというので、月1万円で彼女は自宅兼アトリエのこの黒川の家に絵を習いに来ている。正直友達の感覚のようになっており、結構入り浸っているので、先ほどのように灰皿を片付けたり色々世話も焼くようになっていた。


美緒が煮干しを上げ終わると、クリムトはあっさり彼女の元を去り、年代物のソファへのびり、毛づくろいを始めた。その様子を写真に撮ろうと美緒はスマホを取り出す。


「こら。うちの子に夢中になってないで、デッサンはできたのか?」

「はーい。」


美緒は名残惜しそうにクリムトの側を離れて、カバンから大きなクロッキー帳を取り出した。洋館に置いてあるダビデ像を色んな角度から模写させているのだ。


「なんだこの固い線は。」


そう言って黒川は黒のチョークでザッと線を描きたしていった。


「すごいな、見なくても描けるんだ。」

「何回模写したと思っている。男性の体は確かに直線的だけれど、本当に直線にしてどうする。」

「先生ー、もっと好きな絵を描きたいですー。」

「そのためにこの模写をさせてるんだろう。そもそも」

「体の基本がわかっていないとちゃんとした絵は描けません。はいはーい。」

「この絵。美緒、男性経験ないだろう。」

「アウト。」

「恋愛した方が絵にも深みが出るぞ。」

「ツーアウト。」

「じじいで試してみるか?」

「スリーアウト、退場!もう!今そういうの本当にアウトなんだから。」

「世知辛い世の中だ。」


黒川はケラケラと笑って、やはり煙草の煙を緩く吐き出す。


「この間マッチングアプリとやらを試してみたんじゃなかったのか。」

「試した。」

「うまくいかなかったのか?」

「デートは、してみた。」

「2回目がなかったのか。」

「もー、なんでわかるの?」

「何事も経験。すぐにいい出会いがあるさ。」

「あるといいけど。」


美緒はふてくされて洋館をぶらぶらと歩きだした。描きかけの絵の前で立ち止まる。


「ねえ、先生。この絵はタイトル決まってるの?」

「完成してサインをするまでわからないが、今のところ"愛の終わり”というところかな。」

「愛の終わり?変なの。」

「なぜ?」

「だって、この男性、女性をお墓から掘り出して抱きしめてるんでしょう。それにこの男性の笑顔。これ、愛の終わりというより、愛が続いている感じがするんだけれど。」

「そうかな。」

「死んでもなお、愛してるなんて素敵じゃん。ね、先生。先生はどんな恋をしてきたの?」

「とりあえずバツ4かな。」

「おお、それは初耳ですな。」


美緒は嬉しそうに近寄ってくる。話の続きを聞き出そうとしているのだろう。


「ほら、デッサン。光の加減がまた変わってくるぞ。」

「なにさ、ケチー。先生、なんだかんだ自分の話をあまりしないよね。」


ふてくされながらも、美緒はチョークを手に取って真面目に絵を描き始めた。


「コーヒーは淹れてやるよ。」

「やった。先生のコーヒー、大好き!」

「現金なことで。」


黒川は冷凍庫からコーヒー豆を出して、ミルで曳き始める。


「ねぇ、先生。私、友達紹介するから、教室もっとちゃんとしてみたら?」

「またその話かい?」

「だって・・・正直先生、どうやって稼いでるの?個展開いたりとかもしてないし。」

「個展はなー、パトロンがいないと難しいんだよ。ああいうのは。」

「じゃあどうやって稼いでるの?」

「プロレス現役時代に結構稼いでたんだよ。」

「でも27歳でやめたんでしょう?この洋館も高かっただろうし。ってか本当に変人だよね。お風呂もない、暖房器具もない洋館に住んでるってさ。」

「お風呂に入れてくれる友達は多いので。」

「嘘。私、他の人が出入りしてるの何回かしかみたことないよ。」

「俺の友達は俺と同じでかなり夜行性だからな。」

「あー、なんかわかるかも。というかだからここ幽霊屋敷って言われるんじゃない?」

「はは、人が住んでるのにそんな風に言われてるのか。」

「大学の子たちにはね。そんなことないよ、ここには偏屈な画家のおじさんとキュートな黒猫さんが気ままに過ごしてますよー。って言っておいた。」

「コーヒー止めておくな。」

「嘘です。素敵なロマンスグレーなおじ様が住んでいるとお伝えしておきました。」

「嘘つけ。」


ペーパードリップの中で、ゆっくりとコーヒーの粉が湯気を出した。


夜半、クリムトに占領されたソファーの片隅で、黒川はクリムトを撫でながら描きかけの絵を眺めていた。やはり、煙草の煙を吐きながら。


やはり、男の表情をもう少し変えよう。黒川は煙草を咥えたまま、絵筆を握った。


その時、背広を着た男が入ってきた。


「仕事か?」


男は何も言わず、テーブルにカバンを置いた。一枚の紙を黒川に差し出す。一読し、黒川は煙草の火で紙を焼いた。


「とりあえず、風呂の用意はしておけよ。」

「了解。」


男はそのまま洋館を後にした。


"愛の終わり”というこの絵、男の表情をもう少し変えよう。


黒川は思う。美緒は何もわかっていないと。


彼女は年齢差だけで黒川を男性として見ていないが、それは大きな間違いだ。

黒川は、60を超えても彼女の首をへし折るなど造作もない


つまりだ。

彼女が今大学に通えるのは

絵を描けるのは

クリムトを撫で笑えるのは


呼吸できるのはすべて、黒川の愛ゆえだ。


「にゃおん。」


クリムトがソファーから餌の催促をする。


あの年代物のソファーを持ち上げ、その下に死体を隠すことなど、黒川には造作もないことであった。


「君は、そこがお気に入りだね。」


黒川は思う。やはり、この絵は煙草のヤニがつくくらいがちょうどよいと。






※※※※あとがき※※※※


この黒川という男性、実は「月に雪、かかるは虹」の話で後半登場予定でした。

格闘家を引退した画家の老人。そして暗殺者。元々の物語自体が浮世離れしすぎてると途中で筆を止めてしまったのですが、お気に入りのキャラクターだったのでもしかしたら今後も出てくるかもしれません。








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