寝台列車

八六

寝台列車

汽笛の音がぼんやり聞こえる。

パチッと目を開くと、私はガタンガタンと揺れるベッドの上に横たわっていた。窓の外には、明るい薄緑が広がっている。ぐっと伸ばしながら体を起こして机の上に置いてある時計を眺める。時刻は九時半。

 再び視線の先を窓へ戻す。景色が後ろへ後ろへと流れていく。目に映る草花の名前を考える暇もなく流れていく。


 廊下を出て右に曲がって、食堂へ向かうと、すでに十時を回っているからだろうか、朝食をとる人は私以外には一組の老夫婦がいるのみだった。といっても、老夫婦は食事をすでに終えたようで食後のコーヒーを嗜んでいた。私が食事をとっている間も、老夫婦の間に会話はなかった。おじいさんは新聞をひらりひらりと一ページ一ページ丁寧に繰っている。おばあさんはそんなおじいさんを眺めている。ただそれだけ。一体おばあさんは何を想っているんだろう。表情からは何も読み取れない。

 私が食事を終える頃、おじいさんは新聞を読み終えて、席を立つところだった。立ち上がったおじいさんにおばあさんも続く。自然私は二人の姿を目で追っていた。段々と二人の背中が遠ざかっていく。彼らは先頭車両の方の部屋なんだろう。食後のカフェオレを一口飲む。口に何とも言えない甘ったるい風味が広がる。その風味を味わいながら、部屋から持ってきた小説を読み始める。

 しばらくすると、少しずつ食堂が賑わいを取り戻してきた。壁にかかっている古時計を見ると、時刻は十二時前を指していた。くらっと痛みが頭を揺らす。昔から人がたくさんいるところがどうにも苦手だ。少し残っていたカフェオレを飲み干して、食堂を後にした。

 部屋に戻って、再びベッドの上に落ち着く。列車が揺れるのに合わせてベッドも揺れる。その揺らぎが心地いい。窓から差し込む陽が眩しい。窓の外には相変わらず何もない。ただの緑がどこまでも続いている。列車がトンネルに入った。手持無沙汰だ。電子機器を全部家に置いて来たのが良くなかったのかもしれない。枕元にある小説に目を向ける。小説は読みたい気分じゃないし、そもそもそれほど好きではない。窓の外の景色は変わり映えしなくて眠たくなる。いっそこのまま夜になってしまえばいいのに。

その思いとは裏腹に景色は元通りの昼になってしまった。窓の外に広がる世界が急流のようであるのに対して、部屋の中の時間はゆっくりと流れていく。少し窓を開ける。春を感じる暖かい風。窓から桜が見えることはないけれど、確かに春を感じる。もう幾つも寝たらきっと春が来る。


春は何だか哀しくなる。桜が散るから、寒くなくなるから。

桜の花の散り際を見るのが嫌いだ。散りゆく桜は、焦燥感をもたらすから。


陽射しはその主張を次第に弱めて、夜が幅を利かせてきた。その間、私はただひたすら窓の外を眺めるばかりだった。夜風がするりと髪を撫でる。夜になると少し肌寒い。その肌寒さが、春が近いことを忘れさせてくれる。春なんて来なければいい。願っても仕方ないけど、そう願う。


夜は時間が過ぎるのがなんとはなしに早い気がする。いつの間にか夜も更けていた。狼の遠吠えが聞こえてきそうな夜。ぐぅっとお腹の鳴る音が部屋の中でこだまする。食堂が閉まるまで何も食べる気が起きなくて、結局夜ご飯は食べず仕舞いだ。

はっと、バックの中にクッキーが入っていることを思い出して手を伸ばす。がさがさしながら、袋の中のクッキーを探る。あまり数は残っていないようだったから味わうように食べ進める。さくっという軽快な音と共に口の中にほんのりとバターの甘さが広がる。夜にお菓子なんて久しぶりに食べたけど、やっぱり美味しい。しかし、物足りない。甘いクッキーには少し苦めのカフェオレを組み合わせたいところだけど、生憎もう食堂車は閉まっているし、持ち合わせもない。

ひゅるりと一際強い風が吹いて、私の視線を外へ誘う。

苦々しい夜に月光が溶け込んで闇は白く濁っていた。

カフェオレみたい。なんだかそう思う。いつもは何気ない顔で私を見つめている世界が私に応えてくれているような、そんな気がして少し嬉しい。

 

ふと、私はあと何回夜を迎えることが出来るんだろうと考える。夜はこういう無駄な物思いに耽ってしまう。このまま朝が来たら、私はどうなるんだろう。一人思惟する。まだ目は冴えていて眠る気は起きない。

汽笛が聞こえる。

私はもう一度窓の外に目を向ける。

遠い所へ、私は行きたい。

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寝台列車 八六 @hatiroku86

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