遥か未来の忘却曲線

狛月晦

01

 心が苦しい。心臓を手で握られているかのような焦燥感。何かをしたわけでもないのに、悪いことをしたかのような……。


「おい……人間。傘もささずにどうした」


 大型トラック程の大きさがある毛むくじゃらの、鬼のような怪物が私の視界に入ってきた。背中には小さな翼が生えている。

 何故か怪物に対しての恐怖は出てこない。


 そもそも、眼の前の怪物なんかよりも大きな不安が私の心を締め付けているせいで頭が回らない。

 今、何故私がここに居るのかも、何をしようとしていたのかも。


 思い出せない。


「聞いてんのか【真夜まよ】。さっさと帰って……。さてはお前、またな? 今度は何を売ったんだよ」


「──、──」


 何故か声が出ない。喉元で言葉が詰まる……というような感覚ではなく、強く息を吐いているだけのような……そんな感覚。

 まさか、私はこの鬼になにかされたのか?


「……その感じだと、今回売ったのは「これまでの記憶」のようだな。それなら俺が最初から全部説明しないといけないってことかよ……。面倒くせぇ」


 記憶、きおく……。この鬼の言っていることが本当なら、私が今よりも前のことを思い出せない理由にも説明がつく。


 声が出せないのは私が昔に「声」もしくは声帯を売ったからか?


「まず俺は今のお前が思っている鬼とは少し違う。ただの怪異だ。それとお前は【真夜】だ。それがお前の名前。ここまでは良いな?」


 私は頷く。


「齢19歳。男。バイト未経験。趣味は読書と一昔前の音楽鑑賞。小さい頃から怪異が視え、周りの人間に怪異の存在を知ってほしかったが理解してもらえずに変人扱いをされ、最終的には引きこもり」


 鬼改め、毛深い怪異は私の過去だと思われるものを淡々と語っていく。


「唯一、一人だけ自分のことを理解してもらえていた友人は鬱になった末に自殺。家族は出先で交通事故にあって死亡。お前は天涯孤独となった」


「……」


「希望も未来もないお前は明日死のう。明日死のうと言ったが、その全てを先延ばしにした。結果、今のお前が出来上がった。……その間に何度も怪異に一部の「感情」や「味覚」と「嗅覚」。「三大欲求」なんかを売って金に変えてきた」


 言われてみれば、周りの匂いも感じないし悲しさも怒りも出てこない。

 それに対して何とも思わないし、嘘だとも思わない。後悔さえも。


 出てくるのは自分が何者だったのかという疑問と、色褪せることのない焦燥感。この不安を煽るような左手首の痛み。血が滲んでいる。


「……」


 私の記憶が無くなる前に怪我でもしたのだろうか。

 例えこの傷が自然に出来たものではないにしろ、傷を付けた意図を思い出せない。


 きっと意味もなく傷つけたに違いない。


「おかげでお前は一生遊んで暮らせる程の金を手にしたが、欲も何もない今のお前には金の山に価値を見いだせない。ただただ金に変えてきたから人知を越えた力さえもお前にはない」


 「お前に残っているのは心地の悪い焦燥感と、見なくて良いものしか見ない眼だけだ」──と毛むくじゃらの怪異。


 この口ぶりから推測すると……眼の前の怪異は私と長い付き合いだったようだが、人間と怪異の関係なんてきっと無意味なことだ。


 ……話を聞いてみたところ、私の人生は怪異に狂わされたと言っても過言ではない。


「……」


 私は怪異を無視して、何処かもわからない道を急ぐ。


「おい、真夜。何処に行く」


 毛むくじゃらの怪異は私の手を掴んだ。

 怪異とはいえど、肉体はあるようだ。


「悪いが、俺は昔のお前に色々と命じられているもんでな。俺の目が届く範囲で行動しろ。もし……行きたい場所があるなら連れてってやる」


 昔の……私から。

 記憶が消える前に何を考えていたのかは知らないが、未来の私に何かを託したかったのだろうか。


 なら、昔の自分を知らないまま死ぬのはやめておこう。

 生きる気力はないが、死ぬ気力もない。


「あー……声が出せないのは色々と面倒くさいな。お前の考えていることはだいたいわかるが、そこまで俺は賢くない」


 毛むくじゃらの怪異は考える様子を見せた後、どす黒い爪の伸びた指を立てて口を開けた。

 不揃いの牙には肉の破片がこびりついている。汚い。


「五年だ。五年の寿命を対価に、お前の声を元に戻してやる。……参考までにお前の残りの寿命は──年だ」


 私はその契約を即座に了承して、かつての声を取り戻した。

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