第42話 諦めた人

「俺が誰か云々の前に、あんたそこから出たくない?」

「出たいけど」

「じゃあほれ、掴まって」

 男はそう言うと布を繋ぎ合わせたものを下ろしてくる。ロープのつもりだろうか。

 それを掴むと、少し引き揚げられる。ほんの少しだが、引き揚げられたことで穴の縁に手が届くようになった。少し荒業だが、そこから壁を蹴って上る。

 脱出に成功すると、男が剽軽な様子でひゅう、と口笛を吹いた。

「豪胆な女性だ。引き揚げようと思ったけど、まさか自力で来るとは」

 褒められているのかわからないが、脱出のきっかけを作ってくれた人にはちがいない。一応頭を下げておく。

「ところでなんで私を助けたの? っていうかまさかこの穴掘ったの貴方?」

 そういえば「珍しく人が落ちてる」とかあたかも穴の存在を事前に知っていたかのような口振りだった。

 すると男は悪びれた様子もなく、そうだよ、と答えた。

 ちょっと苛ついたので、手持ちの石をぶつける。すると男は「痛い、ひどい」と喚く。ひどいのはどっちだ。

「いいじゃん、助けたんだからさ」

「そういう問題じゃない」

 憤慨して石をぶつけるうち、ふと気づく。

 こいつ、餓鬼道にいるのに塞の川原の石が効かない。痛いとは言っているがそれだけだ。石が体を貫いたりしないし、そもそもめり込みすらしない。

 それによく考えてみると、ここの連中は皆一様に手足は華奢で腹だけがでっぷりと太っているまさしく言い伝えの餓鬼の姿だ。

 だというのに、こいつは人間の姿をしている。血色は悪いが。

 まあ、餓鬼道にいる以上、ろくでもないやつであるにちがいない。何せ地獄道を越えて尚、罪を悔いていないのだから。人のことは言えないが。

「とにかく、頭から人を疑うのはよくないぜ? ひとまず互いを知る第一歩として、自己紹介でもしようじゃないか」

「落とし穴掘るやつに信用もくそもあるか」

 悪人は言い過ぎかもしれないが、悪戯が過ぎるというものだろう。

 私の疑いの眼差しを受け、男は軽く肩を竦めると、こう名乗った。

「俺の名前はリク。快楽殺人者だよ」

 ……予想通り、とんでもないやつだった。

 快楽殺人というよりか、快楽犯罪者の方が正しいかなぁ、などと宣っているが、そんなの五十歩百歩だろう。人のことは言えないが。

 しかし、快楽殺人者だとしたら、私のように人間の姿形を保っているのにも納得がいく。きっと、こいつが生前に最も強かった欲というのが、殺人欲求とか、そんな感じのものなのだろう。

 一応名乗られたのだから、ここは義理として返しておこう。

「私は未来。長門未来。未来を絶たれたはずなのにまだ生きている」

「いや、ここにいる時点で死んでるから」

 からからと笑い、リクが突っ込む。そこは言葉の綾というやつだが。まあ、過去のことを「生前」と称している時点で死を認めているのかもしれないが。

「あんたはどんな罪を犯したんだよ?」

 好奇の目でリクは私を見てくる。「俺は教えたんだから言えよ」と言われると、反論しにくい。

「あんたと似たようなもんかな。大量虐殺の殺人者。あと、神とやらも殺した」

「ぶっふぉ」

 けたけたとリクは笑う。神なんていたのかよ、と。着眼点はそこか。

 ひとしきり愉快そうに笑うと、そいつは「神をも恐れぬ所業だな」と真顔で言ってから、自分で噴いていた。こいつは今、大量虐殺の殺人者を目の前にしているのを忘れているのだろうか。それとも、自分は殺されないという楽観的な考えを持っているのだろうか。

 まあ、あながち楽観的とも言えない。この餓鬼道及び地獄道は罪を悔いない限り、死ぬことはない世界なのだから。……逆を言うと、こいつには罪を悔いる気がないとも取れる。

 まあ、快楽殺人者を名乗るくらいだ。罪を罪とも思っていないのかもしれない。

 少し見下した目で見ると、そいつは慌てたように両手を振って否定する。

「俺の満たされない欲というのは、殺人欲求じゃないよ。そこは勘違いしないでほしいな。僕は快楽殺人者というより、快楽犯罪者なのだから」

「はあ……?」

 その拘りがいまいちよくわからない。

 するとリクは補足する。

「俺はねぇ、ただ実験を繰り返していただけなのだよ。人間はどうやったら死ぬか、どうやったら精神崩壊するか、どうやったら騙し通せるか、またはどこまで騙されてくれるか。それはもう色々やったものだ。知的好奇心の赴くままにね」

「ふぅん」

 私よりろくでもないやつが存在するとは思わなかった。つまりは知的好奇心のために殺人や詐欺、もしかしたら監禁、拷問にまで手を出していたのかもしれない。

 それを知的好奇心を満たすため、で済ませてしまうあたり、反省の色が全くないのが窺える。

 ここまで来たらなんとなくわかる。この男が満たされない欲は単なる殺人欲求に限らない。

「知的好奇心に基づく知識欲、っていうわけ?」

「近いけど、違うなぁ」

 おや、外れた。

 リクは肩を竦めると、私の得物である塞の川原の石を手に取る。やはり触るのは平気なようだ。

「例えば……俺がどうして落とし穴なんか掘ったかわかるかい?」

「知るか。ただの悪戯だろう?」

「辛辣だねぇ。半分正解だ」

 半分は正解なのかよ、と思いつつ、続く言葉を待つ。

「残りの半分はね、餓鬼という存在に対する好奇心だ。つまりは餓鬼を捕まえて研究するんだね。どうやって死ぬのとか、どうやって餓鬼の姿に変貌するのとか、餓鬼になる条件とかね。この通り、俺は餓鬼とは違う、人間だった頃の姿のままだ。その違いを知るためだった」

 けれどね、と悲しげに笑う。

「餓鬼になるメカニズムは解明できていない。軟禁した餓鬼が、俺が謎を解く前に浄化してしまうから。それでも俺はそのメカニズムの解明に勤しんでいる」

「何故? 貴方の知識欲はもう満たされることがないのだから、その行為に意味はないでしょう?」

「だからこそ、さ」

 リクは手にした石を弄びながら続ける。

「言っただろう? 半分遊びだって。俺の知識欲が満たされないことが確定事項であり、俺は罪を悔いる気はない。きっと未来永劫、この場所で過ごすことになるだろう。

 そんな長い長い退屈な生活の暇潰しなのさ」

 リクの瞳には、諦めが漂っていた。

 もうここから出られないという絶望と同時、罪を悔いる気がやはり生まれないのだという、どうしようもない諦念が見えた。




「俺が得られないのは、快楽だよ」


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