第5話
「あなた、おねしょしてるでしょ」
人気のない廊下で令嬢に本題を切り出した。
令嬢は「おねしょ」というワードに大げさに震えている。さすがの孤児院育ちの私でもさきほどの場で切り出してはいけないワードであることは分かる。デリケートなことだもん。
「今はしてないと思うけど、臭いがしみついてるみたいよ?」
臭いがすると告げれば、令嬢はポロポロ泣き出した。見る人が見れば、完全に私が泣かせている構図だ。
「泣かなくってもいいのよ。私、怪我をしてからなんだか鼻がよくなったみたいで。ねぇ、誰かと一緒に寝てる? お母さん……お母さまとか」
危ない、危ない。貴族ならお母さまと呼ばないとね。令嬢は首を振る。
「あ、一人で寝てる? じゃあ誰かと一緒に寝たら? いやあのね、うちのピーターもおねしょを頻繁にしてて。誰かと一緒に寝たら安心したのかおねしょをしなくなったの。だから、あなたもそれで改善するかなって。ほら、やっぱり自分でも気になって落ち着かないでしょ? 寝るのも怖くなるしお手洗いにも頻繁に行っちゃうし」
「わ、わたくしの乳母が……」
令嬢の言葉はぼそぼそ聞き取りにくかったが、乳母が亡くなってから彼女は一人で寝ているらしい。ははーん、乳母が亡くなって寂しいわけね。可愛い。
え、私? 孤児院の頃はみんなと寝てたけど、蹴られるから痛いのよね……だから一人でふかふかベッドで眠れるのって最高よ。
孤児院の時、ピーターってばおねしょをして怒られてまたストレスでおねしょして大変だったのよね。彼は両親が流行り病で亡くなってわりと大きい年齢で孤児院に預けられたから。八歳でおねしょって男の子は恥ずかしいわよね。目の前の子は十歳くらいかしら。
「お母さまかお父さまに一緒に眠ってもらうようにお願いできそう? おねしょしちゃうと気になるわよね。でも、大丈夫よ。良くなるわ」
孤児院の場合は職員が怒鳴るから逆効果だった。
ピーターは他の子供たちの温かさを感じながら眠ることで安心したのか、おねしょの回数はどんどん減っていった。家族が病で急に亡くなっていれば仕方がないよね。
ピーターのおねしょしたズボンやお布団、よく洗ったなぁ。あの臭いが目の前の令嬢からわずかにするのだ。香水でごまかしてはいるが。
「お、お母さまに……言ってみます……」
「そうしてみて。夜は暗くて怖くて寂しかったでしょ。お母さまと眠れば大丈夫よ」
令嬢はポロポロ泣きながら頷く。すごいわ、貴族のご令嬢って泣き方も孤児院の子たちと全然違うのね。うちは元気よく泣くのは最初だけで職員が怒るから皆泣かなくなるんだけど。
あ、しまった。またおねえちゃん風を吹かせてしまった。ピーターから漂ってた臭いだったから、つい。
これ以上私といると悪い意味で目立ちそうなので、令嬢をソファに座らせて自分だけ戻ろうとしたところでグレンがギリギリ会話が聞こえそうな位置に立っていることに気付いた。
この人、会話を聞いてたの? あのご令嬢の繊細な話を?
グレンは無表情だが、戸惑いの色が若干目に浮かんでいる。
もしかしてプリシラがご令嬢をいじめていると思ったのかしら。止めに来てまさかの話題だったからここで突っ立ってたの? それなら私が令嬢を連れ出した時点で止めればいいのに。それって意地が悪いんじゃない? こういうのが貴族? 貴族のやり方? この人、今日はなかなか帰らないし何なの?
怪訝そうな目でグレンを見てから通り過ぎようとすると、葉巻の臭いをさせた侯爵が現れた。誰かと直前まで吸っていたような強い香り。
「あぁ、プリシラ。ここにいたのか。グレンくんも一緒に」
侯爵は私に向かって「二人きりでいるなんて良くやってるじゃないか」とでも言いたげな視線を寄越す。
「グレンくん。娘も療養が明けて元気になったことだし、よければダンスを踊ってやってくれないか。娘の誕生日なんだし」
うわぁ。なんでさっさと帰っておいてくれなかったんだろう。あんなに嫌そうに贈り物だって渡してきたんだからいつもみたいにさっさと帰っていればダンスなんて言われなかったのに。
妙な緊張が三人の間で走ったが、グレンはさっと頷いた。
「戻ろう」
ここで嫌だと言う選択肢はない。グレンに嫌われているものの、頑張って彼と結婚できれば自由を手にできるのだから。
それにダンスを受けなかったら侯爵に後で絶対怒られる。夫人は力が弱いけど、大人の男性に叩かれたら痛いだろう。この人が叩くのかどうかは分からないが、多分叩く。そういう香りがする。葉巻じゃなくて暴力と支配の香り。叩かれると痛いし、悲しくて心がヒリヒリする。
侍女長と家令と練習したように、グレンが差し出してきた腕に観念して手を添えた。その様子を見て侯爵は満足そうな表情だが、そろりと見上げた先のグレンの顔色は悪い。
プリシラのことが嫌いなのにさっさと帰らないからよ。自業自得ってやつね。ため息を飲み込みながら会場に戻った。会場では私たちを見てどよめきがゆっくり伝播していっている。
令嬢を連れ出したプリシラ(私)がグレンにエスコートされて現れて、しかもダンスホールに向かっているからだろう。
会場の隅に控えている侍女長を見た。彼女はぎゅっと祈るように手を組んでこちらを見ている。
侍女長を見て少し安心した。添えた自分の指が震えているのか、グレンの腕の震えなのかは分からなかった。
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