第40話 濃霧
翌日も霧は晴れなかった。
窓の木蓋を開いて外を覗くと、乳白色の霧に塗りつぶされている。陽光も散乱して弱々しく、太陽がどこにあるのかすらもわからない。
「こりゃ参ったな」
「日が高くなれば霧も消えるでしょうか」
「わからん。あの爺さんに聞いてみよう」
衣服を整え、戸を開けて外に出る。数歩歩いたところでアイラは「きゃっ!?」と短い悲鳴を上げた。手を伸ばせば届くような距離に、老人の皺だらけの顔が突然浮かび上がったからだ。
「おお、おお。驚かせてすまんですのう。この季節はいつもひどい霧でのう」
「い、いえ。こちらこそ失礼しました」
アイラは慌てて頭を下げた。いくら霧が濃かったとはいえ、他人の顔を見て悲鳴を上げるのは非礼にもほどがあるだろう。そして顔を上げて、また悲鳴を上げそうになったのを慌てて飲み込む。老人の横に、何人もの別の顔が並んでいたからだ。
「奥方をお探しだそうで」
「奥方はどんなお人で」
「奥方の服装は」
「奥方の歳の頃は」
別の顔が、一斉に口を開く。どの顔も満面の笑みで、その口には黄色く汚れた歯が覗いていた。
「これこれ、皆の衆。そんないっぺんに聞いたら旅の方もお困りじゃろうて。ああ、あいすみません。旅の方が奥方を探していなさると話したもんだら、皆直接話がしたいと言いよるもんで。いやあ、田舎者でお恥ずかしい。旅の方など珍しいもんで」
「あ、ああ、いや、ご親切痛み入ります」
若干気圧されながら、サイラスはエンバーの特徴について端的に説明する。棺を背負った女というだけで充分だと思うのだが、村人たちは根掘り葉掘り聞いてくる。
だが、いくら説明してもエンバーの目撃情報は出てこない。これ以上は時間の無駄だと判断し、話を切り上げることにする。
「すまないが、先を急いでいるんだ。どうやら妻はこの村を通らなかったらしい。また別を探すよ」
「この霧では迷いなさろう。わしでもこの霧が出たら猟は控えているくらいで」
「危なそうなら引き返してくるよ」
まだまだ話し足りなそうな村人を振り切り、サイラスはアイラを連れて村の外に出た。来たときとは反対側の道だ。しばらく進んで人の気配がなくなったところで、屍喰い蝶を籠から取り出した。
「この霧でも飛べるんですかね?」
「ダメなら引き返すしかないが……大丈夫そうだな」
屍喰い蝶は霧をかき回しながら飛ぶ。こころなしかこれまでよりも活発に見えた。行き先は村から山へと伸びる細い林道に沿っていた。
「こっちでよかったみたいだな。さ、行くぞ」
「はい! って、食料を分けてもらい忘れてましたね」
「かといって、長居しても面白いことはなさそうだ。嫌な予感がする」
「ですよね……」
霧の中で声をかけられたときは
「邪教崇拝ですかね……」
「俺たちは審問官じゃない。無駄なことは考えるな」
聖光教会では異教と邪教を明確に分けている。異教は正しい教えを誤解しているだけという解釈だが、邪教は人類に悪を為す神を崇める。邪教徒の中には死霊術を操るものも珍しくなく、教会にとって敵と認定されるのだ。
だが、その判断は慎重だ。例えば枯れ草谷に住むダークドワーフは、髑髏の御神体に豚や羊の生き血を捧げる。これだけを聞くといかにもな邪教だが、教理を聞けばそうではない。新月の夜に
このように一見して判断ができることではないため、教会では専門部署を置いてその審判を行っている。後日報告ぐらいはした方がよいかもしれないが、いま関わっている暇はない。
雑草を踏みながら獣道を進む。道には木の根が貼っており、凹凸が激しくひどく歩きにくい。そのひとつにつまずいて、アイラが転んでしまった。
「痛たたた……」
「おい、気をつけろよ」
「すみません。霧で足元もよく見えなくって」
サイラスはアイラを引き起こすと、ランタンを取り出した。まだまだ日は高いはずなのだが、霧が濃すぎてまともに視界が確保できないのだ。何度も火打ち石を叩いて
辺りがぼんやりと明るくなると、道端に石像があることに気がついた。それの両手は鋏状になっており、顔も眼球が飛び出している。直立した
「これ、小屋の祭壇にあったものに似てませんか?」
「この村の信仰対象なんだろう」
異形の神を祀る宗教は珍しくない。先に挙げたダークドワーフの例で言えば髑髏がそれであるし、
像を捨て置き、二人は霧の中を進む。ランタンをつけたのに、視界がマシになった気がしない。屍喰い蝶に従って黙々と歩を進めるだけだ。霧が
ずぶ濡れになりながら歩いていると、やがて左右の木々が途切れた。
「あっ、拓けた場所に出たみたいですよ!」
アイラがはしゃいだ声を出した。狭く薄暗い林道が続いて気が滅入っていたのだ。日差しは相変わらず霧に遮られているが、多少は視界が明るくなる。
だが、アイラはすぐに絶句することになった。
「おやおや、お忘れ物ですかのう。そういえば、食料をお渡しできておりませんでしたな」
「え、どうして……?」
霧の中に、老人の顔が浮かんでいたからだ。
拓けた場所だと思ったところは、先ほど出発したはずの村の入口だった。
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