第39話 老人
手を伸ばせば指先が見えなくなるほどの濃密な霧の中を、老人の背中を追って泳ぐように歩く。草むらはやがて森に変わった。一歩進むたびに、霧で湿った木々の葉から雫が滴り、ぽたぽたと音を立てた。
やがて細い道に出る。道と言っても整備されたものではない。人の往来によって自然に出来たものだろう。下草が踏み均され、邪魔になる枝が払われただけの道だった。
「霧の中、歩かせてすまんですのう。村はもう少しですじゃ」
老人の言う通り、すぐに拓けた場所に出た。霧の向こうに人の営みを知らせる灯火が点々と灯っている。濃い霧を透けた弱々しい月光に、麦藁で
村には濃い獣臭が充満していた。灯りに獣脂を使っているのか、解体した血や内臓の臭いか。あるいはその両方かもしれない。
老人が一軒の小屋の前で立ち止まり、引き戸を開ける。ストーブが一台置かれ、その横に薪が積んであるだけの簡素な小屋だった。
「ここを使ってくれなされ。あとで食事も届けますので」
「お心遣い感謝します。これは些少ですが」
「おお、こんなに。これはあいすいませんで……」
サイラスは老人の手に銀貨を1枚握らせる。一泊の代金としては充分すぎるほどだ。
「できれば、食料を分けてもらえませんか? まだ旅の途中でして」
「干し肉でよければいくらでも。村を出る時にお渡ししましょう」
そう言うと、老人は二人を残して去っていった。
「地獄に
「地獄ってほどじゃないが、この霧を凌げるのはありがたいな」
霧は視界を遮り、身体を濡らす。マントの隙間からも入ってくるのである意味では雨よりも
「くそ、煙草もすっかりしけってやがる」
「禁煙しろって
「主神様がそんな些事に関わるかよ」
ストーブに火がつくと小屋の中は柔らかい光で照らされた。他には家具や調度もない部屋だと思っていたが、部屋の隅に小さな祭壇のようなものがあることに気がつく。
「なんですかね、これ。教会のものではなさそうですが……」
祭壇の中央には長方形の黒い箱が置かれ、それを囲んで木彫りの像が並べられていた。像は親指ほどの大きさで、全部で十三体。荒っぽい作りで細部はわからないが、明らかに人間の形をしていないものも含まれている。
「なんだかお葬式みたいに見えますね」
「異教だろう。こじれるから変に触れるんじゃないぞ」
聖光教会は大陸において最大の宗教だが、すべての人間が信仰しているわけではない。地母神や水神、あるいは名もなき神を祀る人々もいる。教会は宣教に熱心であるが、決して強要はしない。魔物や不死者といった脅威がある以上、人間同士で争っている場合ではないという現実的な判断の結果だ。
かといって、異教に寛容かと言えばそうとも言い切れない。聖光教会における主神は
「お待たせしたのう。粗末なものじゃが」
そこへ老人が鍋を持って戻ってきた。鍋の中身は麦粥で、野草と戻した干し肉が入っている。数日ぶりに保存食以外の食べ物を口にして、二人はようやく人心地がついた。
「ところでご老人、最近変わった旅人を見なかったか?」
「変わった旅人?」
サイラスの質問に、老人は首を傾げる。
「棺を背負った長身の女なんだが……」
「ははは、そんな方がおったら忘れるわけがありませんのう。この村はご覧の通り辺鄙なところで、旅人がいらっしゃるのもあなた方がひさびさで」
「そうか。すまない、妙なことを聞いた」
エンバーが同じ目的地を目指しているのなら、この村を通った可能性があると考えたのだが、当ては外れてしまったようだ。
「人探しをされておられるので?」
「ああ、そんなところだ」
「なるほど、それで子連れでこんなところまで……。ご苦労なさいますなあ。わしも死んだ家内の心は結局わからないままで」
「あー……まあな」
サイラスは何か言いたげなアイラを目で制する。
四十絡みのサイラスと十代半ばのアイラが二人で旅をしているのだ。端から見れば親子と思われても仕方がない。老人の想像の中では、家出した妻を探し歩いている哀れな親子連れにでも見えているのだろう。詳しい事情を話すわけにもいかないので、この勘違いはありがたくもあった。
「わしは村にはあまりおりませんからのう。他の者が見ておるかもしれません。明日になりよりましたら、奥方を見かけた者がおらなんだか聞いてみましょう」
「何から何まで申し訳ない」
「いやいや、なんのなんの。寂しい村ですからのう。旅人が来たと言えば、みんな喜んでくれるじゃろうて」
老人が黄ばんだ歯を剥いて笑う。獣の臭いが、一層濃くなった気がした。
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