第33話 死線
アイラを蹴り飛ばした骨馬は、転回して騎手不在のまま駆ける。アイラに向かってではなく、反対に向けてだ。そして百歩ほどの距離が開いたところで再び転回。前足で地面をかき、鼻を鳴らすかのように頭蓋を震わせる。
アイラは歯を食いしばり、震える膝に力を込めて立ち上がる。あの
よろめきながら一歩一歩進む。倒れたサイラスから離れるためだ。固まっていてはもろともに轢き殺されてしまう。自分が囮になれば、サイラスは助かるかもしれない。
戦車が加速を開始する。目論見通り、進路はアイラに向かっていた。
「させるかっ!」
戦車の横合いからゴゴロガが打ち掛かる。狙いは白骨馬の脚。大木を切り倒す樵のような勢いで、全霊の力を込めて戦斧を振るう。だが、ドワーフの剛力で振るわれた戦斧でさえ、白骨馬には傷一つつけられず弾き返される。
たたらを踏んだゴゴロガの脇腹を、車体横に生えた骨の刃が抉る。深手を負ったゴゴロガの身体が己の血の海に沈む。
ゴゴロガを一蹴した戦車はさらに加速。八つの巨大な蹄が大地を揺るがす。巨大な二輪が轍を引いて大地を引き裂く。大質量の砲弾と化してアイラに襲いかかる。
いまの
「天地を統べる偉大なる
聖句を口ずさみながら、傍らに落ちていたスケルトン兵の槍を拾う。石突を地面に突き立て、穂先を戦車に向ける。先程サイラスが行った戦術だ。戦車の、白骨馬の速力と質量を槍でそのまま跳ね返すのだ。この敵を傷つけられるとしたら、もはやこれ以外の手段はない。
迫りくる戦車が妙にゆっくりに感じる。思考が嫌に明晰になる。戦場の喧騒が遠くに聞こえる。前線はまだ持ち堪えられているのだろうか。横たわるサイラスが、ゴゴロガが視界の端に映る。どちらも重傷だ。なんとか生き残って欲しいと神に祈る。
ゆっくりと、ゆっくりと戦車が迫ってくる。当然、実際の速度が遅いわけはない。蹄は激しく土を巻き上げているし、引きつれる戦塵も激しい。最良の駿馬を全力で駆けさせるよりも速いのだろう。
神学校の戦闘教練で、ベテランの神官戦士から聞いたことがある。死線をくぐるとき、時間が止まったかのように世界がゆっくりに見えることがあると。
なるほど、これが死線かとアイラは妙に納得する。あと数回瞬きをすれば、私の身体はあの蹄にかかり、車輪に轢かれて原型も止めぬ姿に変わっているのだろう。それを明確に感じさせるだけの圧力があった。
(サイラスさんってすごいな。これに立ち向かえたんだから。いつも不真面目な感じなのに、こういうときだけカッコつけるなんてなんかズルいです。それから煙草も吸いすぎですよ。せめて怪我が治るまでは控えて欲しいけど、きっと言うことを聞いてくれないんだろうな)
そんな取り留めのない想いが浮かび、アイラは唇の端をわずかに上げて微笑する。いまや視線はただ一点、白骨馬の眉間に向けられていた。この戦いで白骨馬を傷つけた唯一の攻撃の傷跡。サイラスがつけたわずかな罅割れ。
ゆっくりと流れる時間の中で、アイラは穂先の位置をその罅割れに合わせる。もう少し右。もう少し上。そう、この位置。槍が絶対に動かないよう、両腕に力を込める。膝を曲げて衝撃に備える。
激突。
穂先はサイラスがつけた傷跡に正確に突き刺さっていた。歪む柄を必死で抑え込む。石突が、靴の踵が押し込まれて地面に線を描く。砕けんばかりに奥歯を噛みしめる。
罅割れが大きくなった。亀裂が蜘蛛の巣状に拡がっていく。穂先が白い頭蓋に沈んだ。白骨馬の眼窩で黄土色の火花がぱっと散った。
生木をへし折るような音。
陶器を落としたような音。
槍の柄が折れるのと、白骨馬の頭蓋が砕けるのは同時だった。頭を失ったのは右の白骨馬。めちゃくちゃに暴れ、でたらめに地面を踏みつける。左の馬は棹立ちになり、空っぽの眼窩でアイラを睨みつける。その暗い空洞には憎悪が満たされているように感じた。
(えへへ、一矢報いましたよ……)
アイラの膝が地面につく。腹から熱いものが上がってきて、両手をついて吐き出す。真っ赤な水たまり。先程の衝撃でもともと痛めていた内臓にさらにダメージがあったのだろう。ひゅうひゅうと壊れた笛を吹くような呼吸。血溜まりにべしゃりと崩れ落ち。そのまま仰向けになる。
もはや、アイラには指一本動かす気力も残っていなかった。だが、目的は果たした。二頭立ての戦車の片方が暴走している状態ではまともに走ることなどできないだろう。オドゥオールがサイラスとゴゴロガを救出する時間ぐらいは稼げたかもしれない。
死霊術師としての支配力が落ちている可能性も十分に有り得る。そうなれば、戦場全体の趨勢も変わるかもしれない。この作戦の目的は死霊術師を討ち取ることだったが、事前の結果にはたどり着けたようだ。
自分の頭に向かって踏み下ろされる蹄の裏側を霞む視界で眺めながら、アイラは再び微笑した。そして静かに瞼を閉じ――
轟音。
視界を埋めていた蹄が、一瞬で視界の外に消え失せた。
「エンバー……さん……?」
その代わりに、棺桶を担いだ黒衣の女が映った。
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