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「私、全然頑張れないんです。もちろん、仕事で必要な資格は頑張って取りました。でもそれはきっと、勉強は頑張れる方だからできただけで、結婚向きではないんです」

「結婚に何が必要だって思ってる?」

「お料理は苦手です」


 はっきり言うと、彼はおかしそうに目を細める。きっと信じてない。


「本当ですよ。それなりにやってみたけど、上達しないし、楽しくないし、続かないんです。休みの日は商店街で買うお惣菜で栄養は摂れるし、冷凍食品だっておいしいし、コンビニだってよく行きます」


 胸を張って言うことじゃないけど、意外にも秋也は笑わなかった。


「料理ができないのと、結婚生活は関係ないと思うけどね。お互いに、得意な方をやればいいんじゃないか?」

「苦手と得意なことが違えば、うまくいくって思ってるんですか?」

「まあ、そうだな。俺、料理得意だし、毎日作るのも負担じゃないしな」


 そういえば、以前、康代からナスをもらった際、料理が苦手だと話す奈江に、彼はそう言っていたんだった。


「猪川さんに苦手なものなんてあるんですか?」

「あるよ、もちろん。正直、掃除は苦手だな」

 

 あっけらかんと彼は答える。


「あんなにキッチンがきれいなのに?」


 生成りのカーテンの奥に、おしゃれな空間が広がっているのを奈江はよく知っている。


「仕事場だしね、興味のある範囲はきれいなんだよ。マンションの掃除はもっぱら、環生くんがやってくれてるよ。彼はきれい好きだから」


 ああ、そうか。彼には環生がいた。


「じゃあ、私なんて余計にいらないです」

「環生くんじゃ、早坂さんの代わりにはならないよ」


 おかしいなぁ、と秋也は愉快でたまらないとばかりに笑う。


「だって、環生さんの方がよっぽど家事ができそうですし」

「家事をするだけが結婚生活じゃないよ」

「わかってます。それだけじゃないんです」

「まだあるの? あるなら、全部教えてよ」

「……もうお気づきだと思うけど、人付き合いが苦手です」


 それが一番の不安要素だ。


 朝起きて仕事に行く。帰ってきたら、料理とは言えない料理をつくり、寝て起きて、また仕事へ行く。単調な生活に嫌気がさすこともあるけど、少なくとも苦手なものを回避しながらの生活はできている。結婚したら、回避できないものが出てくるだろう。文句ばかりの母を見て育ったから、いくら秋也が否定しようとも、こればかりは素直になれない。


「人間関係ってさ、四季と同じなんだってさ」


 ぽつりと、秋也がつぶやくように言う。


「四季?」

「暖かい季節もあれば、寒い季節もある。人間関係だって、うまくいくときもあれば、いかないときもある。夏から冬へと季節が巡るように、うまくいってたのにうまくいかなくなるときもあるよね」

「じゃあ、うまくいかないときの方が多いです……」

「この人しかいない、と思って結婚した人とすらうまくいかないなんて、ざらにある話だろう? たいして親しくないやつとうまくいかなくたって気にしなくていいんじゃないか?」


 それはなぐさめだろうけれど、秋也は答えを言っていることに気づかないんだろうか。


「猪川さんだって、私とお付き合いして結婚を考えるようになったら、私じゃダメだって思うかもしれない」


 泣きたい気分になる。自分たちにだって、四季はあるのだ。


 うつむくと、ひざの上に乗る手に彼の手が伸びてくる。そっと握りしめられると、奈江も握り返したくなる。でも、そうしていいのかわからないまま、ただ手を重ね合わせる。


「それでもいいんだよ。俺たちだって、うまくいかないことがあってもいいんだよ」

「それで別れても、仕方ないで終わりですか? だったら、最初からお付き合いしたくないです。猪川さんを傷つけたくない」

「俺を傷つけるかもしれないから、付き合うのは無理? 傷つく可能性なんてほんのわずかなのに?」

「わずかでも、可能性はあります」

「早坂さんが俺のために泣いてくれた優しい人だってことは知ってるよ。そんな早坂さんが俺を傷つける可能性なんて、ないに等しいよ」

「でも……、不安なんです」


 まばたきをしたら、ほおに涙がつたう。


 秋也の顔が悲しそうに歪む。泣きたくないのに、苦しめたくないのに、どうしても、不安だけがつきまとう。


「不安に思うことがあるなら、俺が受け止めるよ。起きない何かにおびえなくていい。万が一、何かが起きたときは俺が必ず対処する。俺を信頼して、安心して生きていてほしい。そのかわり、早坂さんは俺の足りないところを補ってくれる?」

「私に補えることなんてありますか?」

「早坂さんは俺の立場にたって真剣に悩んでくれるよね。俺が人生に迷ったときに、一緒に悩んでほしい。それでじゅうぶんだよ。結婚ってさ、お互いに補い合うものだと思ってるよ」


 涙をすくい、顔を近づけてくる秋也を、奈江はみじろぎせずに見つめ返す。


 彼に触れたい。ずっとそう思ってた。いつもそう思ってる。きっと彼も、そう思ってくれてた。


 まぶたを落とすと同時に唇が重なる。柔らかな温かさは優しくて、初めての感覚に奈江の心は震える。泣きたくなったのに、涙が出てこない。きっと幸せを感じているからだ。触れては離れ、離れては角度を変えて重なり合う。触れるたびに欲深になるキスは何も怖くない。


「返事として、受け取っていいか?」


 名残惜しそうに離れた唇が、告白の返事を欲しがる。


「……はい」


 緊張しながら奈江がうなずくと、秋也はうれしそうにほほえみ、伸ばした両腕で、身体ごと包み込むようにそっと抱きしめてくれた。

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