36 「研究者ロック」

 それから、騎士団でのニハマチの特訓が始まった。 

 基本的には木剣を使った斬り合いの練習となった。多流を扱うには段階がいるらしく、木剣自体がただの木剣ではないということだったが、彼はまだ木剣に多流は込めずに剣術練習をした。

 騎士団に混ざり、騎士たちもニハマチの名前を覚え始めた三日目の夜。


「――い! 離れろ! 離れるんだ!」


 ニハマチはその物騒な声で起きた。月明かりでほんの少しだけ明るい部屋の中、ニハマチが寝るベッドのすぐ近くに、黒マントを着たぼさぼさ頭の男がいた。妙齢の細身の男で、アルーシャに胸元を掴まれ、彼が腰に常備している短剣を突き付けられている。

 男はへらへら笑いながら手のひらをスノウに向けて言った。


「そう怒るなアルーシャ君。それにしても覚醒が早いねえ。深い眠りに入れていないのではないかね? 調べてあげようか」

「いい! 貴様に体を触られてたまるか!」

「ふっふ。嫌われたものだ。ふっふっふ……」


 不気味な笑い声を漏らしながら部屋を出ていこうとする男。彼は廊下に一歩足を踏み入れてからマントを翻し、ひょろ長い腕の肘を曲げながらニハマチを指差した。


「ニハマチ君。明日私の研究室に来たまえ。必ずだ。いいね?」

「う、うん」


 男が廊下の床板を踏む音が遠ざかっていく。


「なあ。俺、あの人の研究室がどこにあるか知らないよ」

「明日、騎士団の誰かから声が掛かるだろう。おやすみ」


 アルーシャは素早くベッドに体を倒した。


「おやすみ」


 翌日。騎士団の屈強な男たちの腹を満たす朝飯を食べ、満足気なニハマチ。食堂から廊下に出た直後、待っていたかのようにフレイがいた。


「ニハマチ。君に会わせる人がいる。来てくれ」


 騎士の館である三階と二階から螺旋階段で下り、くだんの研究室は地下にあった。

 湿気のこもる石壁に囲われたその部屋は無数の武具と道具類、そして本で溢れていた。ニハマチはクーパー家の地下にあった隠し部屋を思い出した。

 あまり広くはないその部屋で、男は椅子をこちらに向けてコーヒーを飲んでいた。ビーカーを机に置くと男は立ち上がる。


「ありがとうフレイ君。では帰りたまえ」

「言われなくても帰ります。――ニハマチ、この男、悪いやつじゃない。不愉快な思いをするかもしれないが、多流の研究には必要なことだ」


 頷くニハマチ。フレイが踵を返したところで男が言う。


「さてさて。朝食を食べてきたところだろうが……ああ、出来れば飯は控えるべきだったな。少しズレが出るんだ……ま、座りたまえ」


 再び椅子に座った男に促され、ニハマチも彼の左側にあった椅子の向きを整えてから座った。


「ニハマチ君」


 体を伸ばし、早速ニハマチの頬に触れる男。骨格を確かめるように頬と顎の輪郭を指で摩って、男は姿勢を戻した。黙って触られるままだった彼の目を面白しそうに見詰めて男が言う。


「大人しいね。良いことだ。実は今のは触診と思わせて、性格診断をしたんだ。急に触られてどんな反応を見せるのか」

「そ、そうなんだ」

「冗談だよ」


 ふっふっふと笑う男。ニハマチも訳が分からないままにっこりと笑った。

 男はぐちゃぐちゃの机の上を漁ると、その中から黒い手袋を取り上げた。手にはめ、ニハマチを興味深げに見る。


「胸に手を当てる。じっとしたまえ」


 黒手袋がニハマチの胸の中央に押し当てられる。男は目を瞑ると、十秒以上経ってから目を開けて手を離した。


「……凄いね。シュークリィム君よりざわついている」

「その手袋は何?」

「犬の表皮で作ったものだよ。真っ黒の怖い犬だ」

「ふーん」

「その黒い『わんこ』は多流の匂いを嗅ぎ付けることができてね。応用して手袋を自作した。多流の素質がない私でも、これを通して流素を感じ取れる」

「おじさん、多流を使えないんだ」

「というより、『素質がない』。知っているかもしれないが、多流を使えるのはその素質がある者だけだ。私は異変前から多流を使えた特異体質でもなければ、異変後に体質を授かったわけでもない。君は確か、今年で14歳だと聞いているが、多流の力を自覚し始めたのはいつかね?」

「分からない。物心つく前からかな? 俺が多流の訓練を始めたのは3歳からだって、みんなは言ってたな」

「ふむふむ。――3歳? それは確かかね?」

「うん。たしか俺が8歳か9歳の時に、『空が落ちてきたから』――あ、空が落ちたっていうのは異変のことだよ。だから、俺は異変の前から多流を使えたみたいだね」

「何を言っているんだね? 異変があったのは15年前だ。君は生まれてすらいない」

「……うん?」


(――あ! そうか。空が落ちたのはこの世界では15年前のことだった)


「うーん、何ていうか……」


(……どうしよう? 話すべきか? 騎士団は俺を鍛えてくれるところだ。仲間なら信用するべきだけど……)


 ニハマチの脳裏に、トカゲ博士との記憶が浮かぶ――



「――いいか? ニハマチ」

 巨木の森で大きなブランコに座るニハマチの前で、切り株に座ったコウソウビが言った。

「うん」

「人間ってのは厄介な生き物だ。お前みたいに真っ直ぐなやつばかりじゃない。一見いいやつでも、悪いやつってのはたくさんいる」

「うん」

「昨日お前にパンをめぐんだ女が、明日にはお前の持ち物をそっくり盗んでるかもしれないんだ」

「うーん?」

「だから、相手がいいやつかそうじゃないのかはちゃんと選べ。お前はいい意味で馬鹿だから、誰でも信用するかもしれんけどね。森にいるのはいい奴らしかいなんだ。お前が外に出て悪いやつに捕まっちまわないか、僕は心配だよ」

「うん! 相手選ぶよ!」

「まあ……そうだな。お前に難しいこと言っても仕方ない。お前らしい選び方を教えてやる。――相手の目を見るんだ。じっと見つめて、それで、大丈夫そうならそれでいい。お前の直感に任せるよ」



 ――トカゲ博士の言葉を思い出し、ニハマチはその大きな目で男を見詰めた。


「……どうした? 私の顔が変かね? ルックスにはちょっと自信がある方だが……」


 上目遣いにニハマチを見る男が、少年っぽく笑う。


(……多流の研究をしている人だ。あまり色んなことを教えない方がいいかもしれない。でも、この人は多分騎士団の「博士」だ。俺の力を目一杯鍛えるには、全部さらけ出してしまう方がいいのか……?)


「うーん……」

「うーんと言ってしまっているぞニハマチ君。物凄い集中力だね。何か考えごとをしているようだ。では、私はその間コーヒーを飲むとしよう。君は私の表情に興味があるようだから、このまま視線は合わせたままで。君、目がとても大きいね。ぱっちりしている。美男子だ」

「うーん……――よし!」

「お? コーヒーを飲むところだったんだが」と、男はビーカーの取っ手にかけた手を離した。

「君に俺の『すじょう』を教えることにするよ」

「……特別その必要はないが」

「いや、教えさせてくれ!」


 ――ニハマチは、キツツキやパントマに語ったものと同じ過去を、詳細に男へと話した。

 コーヒーを口に運び、宙へ視線を遣る男。椅子の背もたれに体重を預け、思考に浸る。ビーカーを机に置くと、リラックスした姿勢のままニハマチに目を向けた。


「では、君は『異空間』出身という訳か」

「……異空間を知ってるの!?」

「君の知るそれと同じかは分からないが、君がいたところは一種の異空間で間違いないだろう。私は王国騎士団で多流専門の特別顧問研究者として雇われているんだがね。元々専門としていたのは地理だ」

「地理……何となく分かるよ」

「大丈夫だ。地理について今から講義するつもりはない。異空間というのは大陸の各地に存在する不思議な時空間でね。その不思議な森から出てきたとき、だいたいどの場所にいたか覚えているかね?」

「覚えているんだけど……出る時に『鏡』を使ったんだ。多分、どんな場所にでも行ける鏡だよ。おじさんは俺のいた森がどこの近くにあるかを知りたいんだろうけど、あの森は『この世界』からじゃいけないんだ」

「ふむ。一方通行の鏡。行き先を指定できる。しかしこちらから森には戻れない。面白い、隠された異空間か!」


 男がまた宙に視線を遣る。独りでに笑みを浮かべ、楽しそうに考えごとを始めた。そして再びニハマチと目を合わせる。


「それは盲点だったね。意図的に隠された異空間があるとするならば、その世界の秘密が幾らか解けそうなところだ。――いけないいけない。君を呼んだのは僕の個人的な研究のためじゃない。あくまで騎士団の研究の発展のためだ。君のように異変前から多流の素質がある者は『特異体質』と呼べるんだ。さあ、もっと調べさせてくれ!」


 言うと男は、机の上の比較的整理されたところにある長方形の容器を引き寄せた。蓋を開けるとそこには灰のようなものがぎっしり詰まっていた。

 彼は左手にも手袋を嵌めると、その手を容器の下に空いた穴に突っ込んだ。そして、右手でニハマチの額に触れる。


「体内の多流を意識したまえ。体の中の多流の流れを沸騰させるというか、高めるというか。できるかい? あまり無理はしないように。人によっては『跡』が残っちゃうからね」

「うん。得意だよ!」

「では、僕が触れているところになるべく意識を集中させてくれ。イメージするだけでいい」


 ニハマチは、額に多流を集中させた。

 ――その瞬間、男の体が飛び跳ねた。


「う”っ! ――続けてくれ!」


 男はニハマチではなく灰の容器を見ていた。灰が振動し、中央で立ち上がって山になっている。


「だ、大丈夫!?」

「大丈夫だ……ううっ! いいねえ。体がびりびりして若返りそうだよお……!」

「そ、それは良かったよ」  


 そして、手当たり次第にニハマチの体に触れていった。額、首、関節……各所に十秒以上手を当て、数十箇所でそれを終えると、手袋を脱ぎ捨てて死んだように椅子にもたれた。大仕事を終えた後のように長く強い息を吐く。


「いやあ! 素晴らしい! 君は特異体質の中でもさらに特異。『超特異体質』だ! でかしたぞクラウス君! これはいい研究材料だ!」

「材料でもいいんだけど、寝ている間に体を触ろうとするのは止めてくれないかい?」

「そんなことをしたら君の同居人に殺されてしまう。二度とやらないよ」


 と言って、男の血の気が一瞬だけ本当に引いたように見えた。 


「君はとても才能がある。それ故にもったいない」


 男は手作りの回転椅子を一回転させて、ニハマチに向き直った。


「特製の武器が必要だ。それが多流使いたる者の真骨頂だよ」


 ――ニハマチは男について城内を出て、敷地内にある別の建物に案内された。

 そこは大きな工房だった。奥の壁際に幾つかの炉があり、入り口の壁や棚、机の上に、炉の赤い炎を反射させて煌めく無数の武具があった。

 そこにいた四人の職人のうち、熱い炉に一心不乱に息を吐く職人がいた。研究者の男は、騎士も顔負けなほどに腕ががっしりとしたその職人が進行中の作業を終えるのを待ち、声を掛けた。


「グレムル」


 作業台の上に置かれた剣の素材らしき金属板を見詰めていた職人が、顔を上げる。 


「――ロック。いたのか」

「ちょっと前からね」


 頭髪を綺麗に剃ったグレムルが額と頭の汗をまとめて拭う。ぼさぼさ頭の男――ロックの傍に立つ少年に気が付いて言った。


「誰だ?」

「彼はニハマチ。多流使いだよ」


 グレムルがじっとニハマチを見る。そして腕を組んだ。ニハマチはにっこりと笑っていたが、職人気質の男は気難しそうな険しい表情を心なしか緩めただけった。


「意思の強そうな……」

「ああ。それも大いに関係するだろう。――そういうことで、彼の戦いぶりを私と一緒に見学して欲しいんだが」


 用件を言わずとも、グレムルは彼の意図を理解したようだった。口元をむすっとさせて、目を細める。


「……先生。こっちは大量の仕事を抱えてる」

「たまには息抜きもするべきさ。最近、面白いこと……というか面白い『素材』は現れなかっただろう?」


 職人は目に穴が開きそうなほどにニハマチを凝視した。すると、ロックはからかうように目を大きくして言った。


「見るだけじゃ分からない」

「……それほどか?」

「ああ」


 ロックが屈託のない笑みを浮かべる。すると、グレムルは意外そうに目を丸めて、怪訝に顔をしかめた。


「……分かった。仕事の進捗が一日遅れる分のツケはあとで払っとけよな」

「へいへい。何でもござれ」

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