20. 鋭気ノ術

 そうだ、観なければ! 観気ノ術で。


 僕は深呼吸をして、目を細めて闇に意識を向けた。すると、闇の中でなおも暗いかたまりが駆けている感じがした。


 その塊――鼠の気配は、僕を中心に背後に回り込もうとしている。


 やがて、鼠の気配は僕の首筋に飛びかかってきた。


「そこだ!」


 僕は身を屈めると同時に、霜月を振った。間違いなくその気配を斬った。


 ――しかし、手応えはなかった。


 そして次の瞬間、僕の左手に激痛が走った。懐中電灯が床に落ちて、ぐるぐると光が舞った。


「やめろー!」


 そう怒鳴って、僕は霜月を左手に振り下ろした。


 すると鼠は左手を離し、また闇へと消えていった。


 僕は焦りの中、腰を屈めて懐中電灯を拾おうとした。――けれど、左手の指が開かない。


 鼠に噛まれたせいか、左手が冷たくなり、動かない。妖気が毒のように、手を凍らせてしまったとでもいうのか。


 懐中電灯をあきらめて、僕は腰を落として霜月を横に構えた。目を細めて、また観気ノ術に集中する。


 ――しかし、さっきのはなんだったのだろう。


 僕は間違いなく、鼠を斬ったはずだ。それなのに、そうはならなかった。


 何かがおかしい……。何かが。


 観気ノ術が、通用しないのか?


 いや、観えているんだ。きっと。けれど、鼠はその上をいっている。僕の反応を読んで、さらにそれを上回っているんだ。


 ――そんなことを考えているときも、鼠の気配が僕を捉えてくる感じがする。


 そして、ついに鼠は背後に回り込んできた。その気配がまた近づいてきた。


 僕の心の中で、黒い大鼠が鋭い牙を剥いて、目をぎらつかせている。その先には、僕の背中がある。


 わかっている! 観えているのに、どうしようもないのか。



 そのとき、ふと足元に懐中電灯の光が見えた。その光を見たとき、ある声が聞こえた。


『鋭気ノ術は、まさに意思。いつもわたしが言う、素直さが試される。――それを、よく考えてごらん』


 その言葉はたしか、公園で高木先生と訓練をしたときに、聞いたはずだ。


 夜の公園で、僕は観気ノ術で、高木先生の姿を追った。


 そして、高木先生の攻撃の気配に合わせて反撃した。――けれど、僕は負けた。観えたのに、負けた。


 たぶん、僕が観ているのは心だ。気の流れだ。それは、必ずしも現実ではない。


『なるほど。観えているね。観えるようになったからこそ、気をつけないといけない』


 そのとき僕は、ひとつの言葉に体を貫かれた。


 ――鋭気ノ術えいきのじゅつ



 背後に鼠の気配がある。ちりちりと産毛が逆立つような、怖気を感じる。


 僕は振り向きざまに鼠に駆け寄った。


 そこで、霜月を振った。いや、


 鼠は僕のに反応して足を止めて、攻撃の隙を狙い定めてくる。


 そして、僕の横腹に飛びついてくる。


 あらためて僕は、その気配に霜月を突き出す。こんどは、だ。


 そのとき僕は悟った。高木先生が言わんとしたことを。――鋭気ノ術は、それ自体が第一の刃であり、虚実の攻防を左右する術だったのだ。



「ギャァッ!」


 と、くぐもった悲鳴が聞こえた。右手には重々しい手応えがあった。


 少し先の床に、鼠の姿が見えた。鼠は目に禍々しい赤い光を宿らせて、僕を見上げてくる。


 僕は霜月を腰に構え、素早く近づいた。


 鼠の目を見ながら、「ごめんよ」そう言って、僕は霜月を突き出した。


 霜月は深々と、黒い鼠の体を貫いた。


 すると、鼠は狂おしいほどの甲高い声を上げて、体をのけぞらせた。


 鼠の体じゅうから妖気が噴出し、あたりに消えていった。その化け鼠は――おそらく旧鼠と呼ばれる存在は、死骸も残さず闇に溶けて消えた。


 僕には、旧鼠が死んだのか、一時的に逃げたのか、それすらわからなかった。


 それに、あの頭痛。


 ――まるで、シズクをコウモリに変えた、あの夜に見舞われたような頭痛だった。




 僕は霜月を鞘におさめて、ウェストポーチにしまった。それから、右手で懐中電灯を拾い、出口へと向かった。


 外に出ると意外な人物がいた。


 メガネをかけた、人の良さそうな男――澤田さんだった。


 澤田さんは両手に、ひと抱えの石を持っていた。


 先ほど加藤さんが電話をかけた相手であり、蕎麦屋の人が見かけた人物。それが、澤田さんらしかった。


 加藤さんと黒が、澤田さんを取り囲むように立っている。まだまだ夜は続くようだと、僕は嘆息した。


 まったく、僕の試練はあまりに入り組みすぎている。こんなにややこしい試練を課せられた退魔師は、そうはいないだろう。

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