5. 夢魔との対峙

 夜の十時になった。


 桂木さんの部屋は、いかにも独身男の散らかった棲家という感じだった。モスグリーンのカーテンに、青いカーペットなど、色もちぐはぐ。そんな中で桂木さんは風呂を上がり、やっと就寝の体勢に入った。


 照明も控えめにつけていた。普段から真っ暗にはしないらしく、僕にとってもそのほうがありがたかった。


 僕は桂木さんのベッド脇に腰を下ろした。そこでお菓子をつまみ、インスタントコーヒーを飲み、夜がふけてゆくのを待った。


 桂木さんの頭側にカーテンというか、掃き出しの窓があり、その先がベランダだった。


 そんな中、僕の左横には霜月の黒い漆塗りの輝きがあった。


 心の片隅で僕は、常に戦いの準備をしていた。


 いざとなれば、左手で鞘を持ち、右手で白刃を抜く。なんどもなんども繰り返し、練習をしてきた動作だ。




「き、緊張しますね」


 と、桂木さんの声がした。その言いかたは、ちょっと気持ちが悪かった。


「え、まだ起きてたんですか? 早く寝てもらわないと」

「ええ。わかってます。すみません。ただ、お菓子の音とかが……」


 そこで僕は声を落として、


「あ、ですよね。そうか。なんか、すいません。つい……」

「いえ、いいんです。がんばりますよ」


 そう言って桂木さんはまた、目を閉じた。


 僕は僕で、インスタントコーヒーをおかわりした。絶対に寝落ちするわけにはいかない。



 十一時半になると、もう食べることにも飽きてきた。そんなとき、やっと桂木さんの寝息が聞こえてきた。


 そのうち、窓がぴしりと鳴った。


 いったいなんだろう……。


 鳥肌が立って、こめかみに疼痛が走った。


 すると、桂木さんがうめき声を上げはじめた。


「う、ん。あ、あ……」


 頭上の電灯が明滅し、窓が、と鳴った。


 僕は左手に霜月を取り、右手を柄にかけた。


 ――星々も凍る冷たい冬に鍛えた刃、霜月。この相棒だけは、僕を冷徹に、冷静にさせてくれる。いや、そうしてくれるように、願った。


 大丈夫だ。そう自分に言い聞かせ、深呼吸をする。



 そのとき、カーテンの向こうに気配を感じた。僕は息を潜めて気配を消した。『消気しょうきノ術』と呼ばれる、基本的な三術のひとつだ。


 カーテンに向かって進み、そっと、そのモスグリーンの生地をめくる。それから黒い窓ガラスに顔を近づける。――しかし、街灯や星々のほか、なにも見えない。


 窓をそっと開けて、裸足でベランダに出た。そこであたりを見回すが、変わったものは見えない。


 しかしそこで、重たい気配が体に押し寄せてきた。


 心臓が強く脈動し、呼吸が浅く早くなる。


 なにかが背後にいた。部屋の中に、なにかが……。


 僕は霜月を抜いた。


 そして、歯を噛み締めながら振り返る。



 そのとき、がいた。


 そいつは露出の多い黒いドレスみたいなものを着ていた。背中から伸びる黒い筋ばった翼は、コウモリのそれを思わせる。頭の両端には小さな黒い角があり、目は金色に光っていた。その体は常に不気味なオーラというか、薄闇に包まれていた。


 そいつ――夢魔は、桂木さんの頬に手を伸ばし、じっとその顔を見つめていた。


 それから夢魔はゆっくりと顔を上げ、僕を見た。意外なことに、悲しそうな表情をしていた。僕は一歩たりとも動けなかった。


 すると夢魔は、青黒い唇をひきつらせて、


「ぼうや……。その短刀おもちゃで、どうするつもり?」


 そう言って、しばらく夢魔は僕を見ていた。


 霜月を握る右腕に力を入れようとしたが、情けないことにびくとも動かない。金縛りというやつだ。


 それでもやがて、夢魔は体を起こし、翼を動かして浮かび上がった。それから部屋の奥の闇に吸い込まれるように、背後へ下がっていった。――そうして壁際まで行くと、壁に溶け込むように消えた。


 僕の手や顔や首から、とめどなく汗が滴った。


 夢魔が敵だとわかっていたのに、なにもできなかった。――あの夜の種族の、存在の重たいこと。あの気配やあの瞳。体から放たれる瘴気。それらのすべてが、僕を圧倒した。


 けれどやはり、夢魔と目が合った瞬間の、あの悲しげな表情が僕の心の中に残っていた。

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