泣きむし翠の退魔録 〜東京もののけ哀歌〜

浅里絋太

序章 試練のはじまり

1. 翠と黒

 夏の夜のことだ。部屋の隅には、猫みたいな輪郭をした黒い影がうずくまっていた。


 そいつは小さな目をぱちくりさせ、怯えるように部屋を見まわしていた。


 僕は右手に握る短刀を鞘に戻して、黒い影に言った。


「逃げなよ。あんまり、人間に近づくなよ……。でないと、もっと怖い目にあうかもよ」


 そいつを部屋の窓辺に追い立て、窓の隙間から外に逃した。黒い影は夜へと消えていった。


 僕は黒塗りの鞘におさまった短刀を、目の前にかざした。それは里の退魔師に与えられる霊刀で、銘は『霜月しもつき』という。


 僕はいちどとして、この霊刀を正しく扱えたことがない。


 あの、黒い猫みたいなやつは、ふいに窓から迷いこんできて、部屋を走り回り、行き場をなくして困っていた様子だった。――まともな退魔師なら、即座に始末してしかるべきだろう。



「どうした? みどり。なにさわいでるんだ?」


 と、隣の部屋から長身の青年――黒がやってきた。黒は風呂上がりらしく顔を上気させ、黒髪は湿っていた。ボディソープのりんごの匂いがする。白いタオルを首にかけ、グレーのスウェットシャツを着ていた。部屋の入り口に頭が届きそうだ。


「うん。ちょっとさ、迷い猫がね」

「そうか。えらく、ぶっそうな猫だったんだな」


 そう言って、黒は僕の手にある『霜月』を見た。僕は弁解するみたいに、


「え、う、うん。でも、悪いやつじゃ、なさそうだったんだよ……。だから」


 すると、黒はふっと笑った。


「無理すんな。でも、やるときゃ、やれよ、翠……」


 そう言って黒はタオルを頭に被せて、背中を向けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る