第10話 侵入者
千丸はもう家に戻るまで口をききませんでした。弦庵を家に入れることもなく、往診道具の包みを戸口から突き出すと、最後に言いました。
「せっかくじゃから、置いたとこも言うといてやる。南のあの山をそのまま二つ越えて、山裾まで下りたら平地へ向うとる道があるべ。その道が見つかったら、最初に見える家がそうじゃ。行きたきゃ好きに行きなされ」
そう言うと、千丸はピシャリと戸を閉めました。
・・・やっぱり、そうなるか・・・
弦庵は南の山々を眺めました。頂上あたりには所々うっすらと白いものが施され、露わに残る山肌が夕陽に紅く照り映えています。一応旅支度なので、干し飯などの携帯食は持っているものの、今から山に入るのは無謀というものでしょう。
それにしても『南のあの山』と言いながら、まるで少し険しいだけで、普通に越えてきたようなことばかり言う。そんな道をいつの間にか誰かが造ったとでも言うのか・・・?
弦庵はますます確かめずにはいられなくなりました。
「ええい、騙されついでじゃ」
千丸の言う場所を当たり外れはあれとにかく全部見ておけば、中途半端な今の気分にけりをつけることもできよう。道があろうがなかろうが、下手をすると『伝説の村』を発見することになるやも知れぬ。
弦庵は千丸の家の周囲をぐるりとまわると、もうあまり残りもない薪小屋の空いた所に身を押し込めました。ここで黙って夜を明かし、早々に発とう、と。
千丸が一晩中外に出てくることもなく、夜が明けると弦庵は無事に小屋から這い出しました。絞り袴の汚れをパタパタと払うと、いつも持ち歩くように往診道具の包みを肩に斜めがけにし、背中に回してあたりの木の枝を拾って杖にしました。もう千丸の家は振り返らずに、南の山を目指します。
ほとんど半日がかりでようやく山裾まで辿り着きました。
とにかくこの山と、それに連なるもうひと山を素直に越えてみるしかない・・・越えられるものならば。
道ができているならまずその登り口を探さねばなりませんが。
山裾に沿ってしばらく歩いてみてもそれらしいものは見つかりません。弦庵は意を決して山に入りました。とにかくどこからでも登ってみないことにはどうしようもないのです。本当に人を拒み続ける山なのか。千丸の話は一体何なのか。
どうやら人の道ではなくともけもの道らしいものはできているようです。長年の間に生え伸びた木々を頼りに体を上へと登らせて行きます。
そう思いながらも弦庵のとった道らしきものはやはり人が来るのを拒むかのように荒々しく急峻で、まさにしがみついて這い登るという感じです。時につかみ損ねた石や土の塊がボロボロと崩れ落ちていきます。頼りとする木々もだんだんまばらになっていきました。次の山も同じだというのでしょうか。
遠くから見た雪化粧と思しき白く冷ややかなものがあたりを所々覆い始めています。弦庵は汗をしたたらせながらも手が冷たくなっていくのを感じていました。
それでも息も絶え絶えにようやっと頂上まで登り着きました。
・・・こんな年寄りにも登りつける山だったのだ・・・
弦庵は頂上の少しばかりの平坦な、雪のない所に仰向けに身を投げ出すと、しばらく休みました。頂上はほとんど禿山で、あたりには真昼過ぎの陽の光を受けた雄大な山並みが続いています。そして目の前に同じほど高い、これよりもさらに険しそうな山が聳えていました。
・・・ほんまに、赤子を背負ってこの山を越えて行ったんか・・・
素直にこのまま横へもそれずに『山二つ』と言うならそれしかないのでしょう。確かに、あの山の向こうに何かある、ような気配は漂っているような気がします。
弦庵は起き上がると竹筒の水を飲み、干し飯を半分ほど食べました。このまま暗くなるまでに山越えだけでも叶うようにと願いながら。
立ち上がり、途中であきらめて捨ててしまった杖もないまま、ゆるゆると下りに入っていきました。替えに用意していた新しい草鞋も心もとなくなっていますが、同じように急な山肌を、滑りそうになりながらも両手で手がかりを求め、踏みしめつつ降りていきます。頼りとなる木々が生えているのももう少し先です。
ふと、踏み出した足の下に何か丸い塊のようなものがさわり、思わずずるりと滑りそうになりました。ヒヤッとして足元を見ると、枯れた草の積もった中から現れたのは・・・
一つの頭蓋骨の上半分でした。
弦庵は思わずそこに腰を落としました。土を掘るようにあたりの枯葉をどけると、もう何十年たっているのかと思える人の白骨が、朽ち果てた衣から見え隠れするように現れました。
・・・同じように『村』を目指して山を越えようと思った者なのか?
叶わずに行き倒れたと?
弦庵は改めて山深いまわりを見回しました。もしかしたら、この山々のあちこちに『村』に行き着けなかった人たちが埋もれているのかもしれない・・・
この自分はどうなる? ひと山は何とか越えたものの・・・
弦庵は今さらながら、胃の腑が絞られるような気分になりました。それにも増して千丸の言い分が訳がわからなくなってきます。
弦庵は立ち上がりました。少なくとも自分はこの骨の人間よりは先へ行けるのだ・・・
とにかく、今は『村』があると信じてひたすら進むしかない。
そう思うしかありませんでした。
やがて樹木が少しずつ手がかりとなるあたりまで来ました。樹木は次第にその高さを増し、陽の光を直接見ることはなくなり、斜面は緩やかになっていきました。すると程なくまた登りが始まりました。そのまま連なっている次の山に入ったようです。あまり下まで行くことがなかったせいか、次の頂上までは悲嘆するほどの距離ではなさそうです。もう、あたりの景色など目に入る余裕もなく、背中に回した往診道具の包みをお荷物に感じながらも目の前の地面をつかんで登ることだけに集中し、登って少し息をついては登り続け・・・・
ぱっと目の前が開けました。
弦庵は目をこすりました。突然のことに声を上げることもできません。
この山の裏側にこんな光景が広がっていようとは・・・
周囲にはまるで山城に守られるかのような堅牢な山並みがどこまでも取り囲み、その裾野から広大な盆地が広がり・・・
そこに建つ家々が見渡せました。夕日の中に紅く輝いています。
多くの家が建ち並び、田畑が輝き、生活の煙をたなびかせている・・・
それでも、途中にせり出す山々もあり、盆地はその向こう側にも広がっているようで全体が見渡せているわけではないようです。
これがもしや・・・伝説の村・・・? ほんまにあったんか・・・?
弦庵は体が熱くほてってくるような気がしました。
行き倒れずにここまで来れたのです。柄にもなく
もう千丸のことなどどうでもよくなってきました。ただ、一言だけが浮かびます。
『平地の道に入れば最初に見える家』
弦庵はここから見える限り自分の立つ山の裾野あたりの家に目星をつけると、元気を取り戻したように、改めて杖にできる枝は落ちてないかと物色し始めました。
下りは人の背の高さを覆うぐらいの木々が予想外に鬱蒼としていて、まるでとってつけたように視界を阻んでいます。道を辿るというより木々の間をすり抜けて行くという感じです。それでも必死になってただ闇雲に地面を踏み分けるうちに、行く手を塞ぐ巨岩を、足元を踏み外さないようにしがみつきながら回り込み、根元から枝分かれした木の茂みを大きくまたぐようにして越え、さらに目の前の茂みから一歩踏み出した途端・・・
地面がなくなりました。その先はえぐれるような急な崖になっていました。
弦庵は目の端に突き出している何本かの木の根につかまることもできずに杖も取り落とし、転がり落ちていきました。
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