第7話 いのち流れて

 月が高く昇る頃、ようやく千丸の家にたどり着きました。

 薄暗い燈台の灯の中で、寝床のそばに娘のみやとその亭主で領主の四男坊の宗次むねつぐが座っています。ふたりして訪ねてきていたようです。医者が部屋に上がると千丸と宗次は板の間に離れて座りました。

 弦庵は挨拶もそこそこに、自分で燈台をそばに置き直すと女房の傍に陣取りました。かやは上掛けから出ている上半身の胸の上に手拭いがかけられています。みやと宗次にできる精一杯のことなのでしょう。とにかく医者を待つしかなかったのですから。そしてかやはもう大きな息はしていませんでした。ぐったりと夢うつつの中にいるようです。

 弦庵は手拭いを剥ぎ取ると、「これは・・・」とつぶやいて傷を調べ、息の具合を見ると、上掛けをめくって足や腕や全身を押さえるようにさわって確かめました。しばらく医者の見立ては続き、やがて、

 「気の毒じゃが・・・手遅れじゃ」 厳かにそう言いました。

 全員が息を呑むのが一つの音になって聞こえました。

 やがて沈黙を破るかのようにみやが叫びました。

 「どういうことじゃ? どうなっとんのじゃ⁉︎」

 宗次があわててみやのそばへ行き、傍に座りました。

 千丸は何も言えませんでした。みやにはまだ事情らしきものは何一つ話すことができないままなのです。

 弦庵が容体を話し始めました。

 「毒気が体中にまわっとる・・・朝まで持つかどうか・・・わしにもどうにもならん」 まして往診用の道具立てではできることはありませんでした。

 みやが悲鳴のような声を上げました。宗次の腕の中に泣き崩れます。

 千丸はただ呆然としていました。頭の中が真っ白になるばかりです。それでも弦庵は容赦なく千丸に向き直りました。

 「何をぬったんじゃ?」

 千丸は反応しません。

 「おまえさんがぬったと言う薬を見せいと言うとるんじゃ!」 弦庵が怒鳴りつけました。

 千丸は飛び上がるように正気に戻ると、どこに置いたかとバタバタとあたりを走りまわり、暗く沈んだ隅に見つけると手が震えて取り落としそうになりながらも一つの小さな壺を持ってきました。千丸が差し出すのを弦庵はひったくるように取ると、かぶせてある油紙の蓋を外し取り、燈台のそばで中を覗き見て鼻を近づけ、臭いを嗅いでみるまでもなく叫びました。「こりゃ、打ち身用の膏薬ぞ! 手足をひねったりしたときのもんじゃ。傷に使えるもんではない!」

 弦庵は壺に指を入れて中身を指先に取り出しました。

 「それも相当古うなって傷んどる・・・こんなもんぬったんか⁉︎」 弦庵は怒りよりも青ざめていました。

 千丸は、わーっと声を上げて泣き崩れました。

 「なんで・・・なんでこんな間違いが起こってしもうたんじゃ・・・」 弦庵は壺を目の高さに上げて全体を見るように回しました。確かに自分の所で使っている壺です。いつのことにしろ、自分が渡したものには違いない・・・。

 弦庵はそうと知ってせめて最後の足掻きとして、薬箱を物色して毒消しになるやと思われる薬を調合し、煎じる間もなく乳鉢の中でそのまま水で溶き下してとにかく女房に飲ませてみることにしました。呑み下す力が残っているかどうか、むせるとますますややこしくなるが・・・

 弦庵はかやを抱き起こし、匙で溶き薬を口に入れました。かやはうっすらと目を開けました。が、何かが見えているようではなく、口に何か入れられたこともわからないようで、ただ、口の端から流れ落ちるばかりです。

 「頼むから飲んでくれ」 弦庵は流れる薬を匙でかき取りながらも口に運び続けました。

 やがて、一度だけ、ごくり、と喉を通る音がしました。

 弦庵はかやを寝かせると、ふう、と息をついて乳鉢を傍らに置きました。気休め程度でしかないとはわかっていましたが、何かせずにはいられませんでした。そして、もう、天に任せるしかないのです。

 弦庵はこのあたりの村々では少しのことなら自分たちで適当に野の薬草をとってきて治していることは知っていました。実際、それがもとで返って悪化してその手当てに呼ばれたこともあります。そして、良かれと思って薬を余分に渡すのが弦庵のやり方でした。もちろん、呼ばれる度に大層な謝礼の品々を渡されたり家まで持って来られたり何やかやと世話を焼かれたりして、十分な生活や研究ができるからこそのことなのですが。また同じようなことがあれば、そこらのものを取ってくるよりこれを使え、と。そして使い方はいつも重々教えているつもりなのです。当然、いつを過ぎて残っていたら、それはもう使わずに捨てよ、とも。

 しかし、治ってしまえばすっかり忘れてケロリとしている住民たちが、もらった薬を後生大事に扱うと考えるのは医者の思い違いだったかもしれません。多分、この薬壺も、戸棚の隅にあることなど忘れられていたのではなかろうか?

 弦庵の頭の中でどんどん推理が積み上がっていきました。長からもらったというこの薬壺、多分、あの時に自分が新しく薬を渡したから、長は戸棚にこれが残っているのを見つけて、この壺をやったのではないか? 戸棚の中が一つでも片付くとでも思ったのだろう、そのときに自分が与えた注意など思い出すだろうか? もう、何の薬だったかも、いつもらったのかも忘れているのでは・・・?

 そして、その時は別に余分な薬が必要な状況ではなかったからこそ、この男もただもらえるからと何の薬とも聞かずに気軽に受け取っただけなのだろう。そういえば、娘の足の手当てとしては、何度か貼り替えたら治るだろうぐらいの分しか渡してなかったな・・・。確かに、これがその薬とは思えない・・・。

 そしてこの男の家でもこの壺は使われることもなくただ置きっぱなしになった・・・。

 それを今、思い出して、ただ必死でせめて血を止めようと考えもなしにぬっただけなのか・・・。

 家に帰れば詳細な投薬の記録も取ってあるので、この薬がいつのものなのかもわかろうが、それがわかったからとて、今となってはもう・・・。

 「赤子は・・・」 弦庵は頭を抱えていた両手を離して、ふと顔を上げました。

 「赤子はどこにおるんじゃ?」 千丸の方を見て言います。が、まだ泣きじゃくっている男には酷すぎる質問でした。

 それでも千丸はがんばって答えようとしました。自分から説明できなくとも、問い詰められれば何とか言えそうな気がするからです。

 「鬼っ子じゃと思えたで・・・捨てに行った・・・」

 「・・・どこに?」 弦庵には意外すぎる答えでした。確かに家の中に赤子の気配はしませんが。

 「山二つ向こうの・・・どっか知らんとこじゃ・・・そこにあった家の前に置いてきた」

 「山二つ・・・! おかみさんをほっといてか⁉︎」

 「ここには置いとけんかったで・・・いつ死んでしまうかもわからんし・・・わしらの手元で死なせとうもない。乳首食いちぎるような赤子を知っとるもんに頼むわけにもいかんのじゃ!」

 「何じゃそれは⁉︎」 いきなりみやが叫びました。「赤子が食いちぎった言うんか⁉︎」 立ち上がるなり千丸に駆け寄ってつかみかかりました。「どこの赤子なんじゃ、それは⁉︎」

 宗次があわててみやを引き離し、腕の中に留めました。

 千丸は今になって思いました。赤子などほっといて直に先生を呼びに行くか、せめて赤子を置いた帰りに呼びに行っていれば、まだ何とかなったかもしれん・・・。

 しかし、弦庵の家はこの村よりも北側にあるのです。自分の家を通り過ぎることになります。

 遠い山の道のりを歩きながら、頭は何も働かず、何の考えも浮かばず、ただ闇雲に歩き通しただけなのです。まさかあのぬり薬でそんなことになっているとは思いもかけず。

 そのまま家の中に泣き声がもれるだけの時が過ぎ・・・

 白々と夜が明け始め、まわりのものが目に現れてきました。

 弦庵の言う通り、そして、最後の足掻きが吉と出ることもなく、朝を待たずにかやは息を引き取りました。

 弦庵の「臨終」の声を聞いたみやが、もう涙も枯れ果て、ふらふらと立ち上がりました。まるであたりが見えていないかのようによろけながら土間の方へ歩いていき・・・

 そのまま土間へ転げ落ちました。弦庵と宗次があわてて駆け寄りますが、千丸は動けないままでした。

 みやはそのまま気を失い、

 「大変じゃ!」

 弦庵が叫びました。娘の下半身が赤く染まっていきます。

 「子がおったんか⁉︎」 弦庵は宗次への問いかけもそこそこに二人で抱えて板の間に寝かせると、男たちに怒声を浴びせるかのように手伝えることを指示し始めました。が───。

 医者の必死の処置もむなしく、芽生えたばかりの命は失われました。

 続けて二つの命が消えるところを見せられた宗次は、今までの寡黙を捨てて、ぽつりぽつりと語り始めました。やや子ができたことを報告しに夫婦そろって帰ってきたこと、家に着くと父親が留守で母親が伏せっており、高熱でうなされているので、宗次はとりあえず近場にいるかもしれないと父親を探しに出かけた・・・家々を尋ねてまわったり心当たりを歩いてみても見つからずにあきらめて戻ってみると、一旦戻ってきた父親がすぐにまたお医者を呼びに行ったと言う・・・心配したみやが母親の様子を色々見るうちに、血に染まった手拭いと胸のただれを見つけていたので父親に問いただしたが、何も答えてもらえずに飛び出して行った・・・。

 暗くて見えなかった板の間の片隅には、持参した祝いの品々の包みがそのままに置かれていました。

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